政治への不信、不安定な雇用、原発の問題……。不安が広がる日本で、どう生きていけばいいのかを考えなくてはならない。そんな中、國分功一郎さんの哲学や言葉が求められている。「哲学がない時代は不幸だが、哲学を必要とする時代はもっと不幸だ」と言う國分さんの言葉が重く響く。
【画像】現代思想の大家、アルフォンソ・リンギス氏と談笑する國分功一郎さん
* * *
一人の哲学者を紹介するにあたり、何から書き始めるべきかを考えたとき、その哲学の一端を知ってもらうに勝る方法はない。そこでまず読者の方々に、一つの哲学的な問いを提示したい。暗い夜道を歩いているあなたの前に突然、ナイフを持つ男が現れ「金を出せ」と脅してきた。いわゆる「カツアゲ」だ。命が惜しいあなたは、ポケットから財布を取り出して金を渡すと、男は走って去っていった。
さて、このときあなたは、自らの意志によって金を払った(能動)と言えるだろうか。それとも脅された結果、金を払わされた(受動)と考えるべきか? 確かに男は暴力をちらつかせあなたを畏怖させた。しかし金を渡す行為自体は物理的に強制されたものではない。あなた自身がポケットに手を入れ財布を出し、男に金を渡したのだ。これは自発的行為と言えるのではないか?
國分功一郎(45)は、「この問題を考えるためには、我々が慣れ親しんでいる『能動態』と『受動態』という言葉の枠組みから離れる必要があります」と語る。そのかわりに國分が提示するのが、ギリシャ語や英仏独露語などの母体となった数千年前の古代インド=ヨーロッパ圏の諸言語で、広く用いられた「中動態」という言語様式である。
「カツアゲされてお金を渡す人は、一見『お金を払う』という行動を自分で決めたように見えますが、その行為は本人の意志や能力の表現ではありません。むしろカツアゲする側の意志と暴力が自分の体を通じて表現された結果の行動なのです」
そうした「自分自身の意志は関係ない状況だが、その行為の中心に自分がいたときの行動」が中動態という様式でかつては表現されたのだという。國分は古今東西の哲学者、言語学者が残した文献を渉猟し、この「中動態」という古くて新しい概念を再発見した。その成果をまとめた2017年刊行の『中動態の世界──意志と責任の考古学』は哲学書としては異例の3万6千部を売り上げ、同年の小林秀雄賞を受賞している。優れた評論やエッセーに贈られる賞だ。