「上京して、そんなたいそうなことが起きるとはまったく考えてなかったんです。『東京に行ってもマックだったら働けるな』って思っていたぐらいで。鹿児島でもずっとマックでバイトしていて一通りできましたから」

 デビュー以来、音楽ディレクターとして中島と伴走してきた後等求(ごとう・もとむ)(51)は、初めて会ったとき、絶対に売れるという確信を持てなかった。服装のセンスがよくて可愛らしくはあったものの、普通の少女にしか見えなかったのだ。が、後等はほどなく、中島のポテンシャルを知ることになる。

 初めてのジャケット写真の撮影時だった。

「ハスの沼を模したスタジオのセットの中に彼女がたたずむ感じで撮られていた。で、最初のチェックで、スチール写真を見せてもらった瞬間、うわーすごい、これ、人気が出るかも、と思ったんです。目に強い力があって、すごく時代を感じたんですね。それまでの自分の仕事では、ちょっと体験したことのないような新鮮さがありました」

 デビューシングル「STARS」は、大ヒットを収めた。しかし、中島は、この段階でもまだ冷めていた。

「何もわからないままやっていたので、売れようが売れまいが、嬉しくもなんともなかったんです。私が書いた作品ではないし、私が考えたことでもなんでもないし、『よっしゃあ、私、やったぜ』みたいなのは全然なかった。むしろ、3年ぐらいで消えるだろうから、そろそろバイト探さなきゃと思っていたぐらいでした。そんな簡単な世界じゃない、という思いもあったんです」

 そうした中島の思いとは裏腹に、仕事は加速度的に増えていく。歌番組への出演、インタビュー、次作のレコーディング、詞の創作……。同時に、少女の中では、仕事に対する疑問が日々募っていった。歌って踊れるアイドルにしようという事務所の方針に耐えられなくなっていくのだ。

「衣装の色は白、髪の毛は茶色でゆるく巻く、と万人受けするアイドルにさせられようとしていた。でも、私は、中学あたりから、水色のカツラをかぶってカラコンを入れて学校に行くような子だったから、もう窮屈でならなかった」

 中島はダンスレッスンを拒み、お仕着せのヘアメイク、ファッションから離れ、自分のスタイルを徐々に打ち出していく。「眠ればすぐ朝が来る それは恐い自由の国」という詞の「RESISTANCE」を発表したのもこの頃だ。少女は静かな抵抗を続けた。(文/一志治夫)

※記事の続きは「AERA 2019年12月16日号」でご覧いただけます。