批評家の東浩紀さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。
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「新潮45」が休刊した。10月号に掲載されたLGBTへの差別記事が問題視され、非難が高まったからである。新潮社は具体的な記事名を明らかにしていないが、問題視されたのは文芸評論家の小川榮太郎氏の寄稿だと思われる。氏はLGBTを「ふざけた概念」とし、その生きづらさを性犯罪者の衝動に喩(たと)えていた。関係者は事実上の廃刊と語っている。
「新潮45」は36年の歴史をもつ論壇誌である。近年は誌面が右傾化し読者も離れていたが、過去には高い評価を受けた時期もあった。廃刊は重い決断だが、今回新潮社の動きはじつに速かった。10月号の発売は9月18日、3日後の21日には早くも社長名で事実上の謝罪声明が出て、25日には休刊が決まり役員の減俸処分も発表されている。
とはいえ、この動きをもって真摯な反省がされたと言えるかといえば、疑問である。新潮社の判断はあまりにも拙速で、単純な「炎上対策」のように見えるからである。件の記事に対しては、発売直後からネットの反応が激烈だった。作家による執筆拒否や書店による商品引き揚げ宣言が相次ぎ、社屋前には抗議する市民も集まっていた。「新潮45」は論壇誌なのだから、本来ならそのような声に対して言論で応えるべきである。たとえば次号以降であらためて検証記事を作り、LGBTをめぐる議論を深化させてもよかった。とはいえそれでは炎上は収まらないだろう。経営陣は言論の使命より一刻も早い鎮火を選んだのだ。
この事件は、いまの出版界が陥った負の状況を集約して示している。そもそも「新潮45」は、2年前に編集長が交代して以後、炎上ねらいの過激記事が多くなったと噂されていた。問題の10月号はその延長で編集され、実際に炎上商法で完売となった。今回の誤算はそれが炎上「しすぎ」たことにあるわけだが、炎上頼りで誌面を作ってきた編集部と、炎上に怯(おび)えて慌てて休刊を決めた経営陣の判断は、じつは似姿である。どちらもネットに振り回され、出版の強みを見失っている。しかし、出版の強みは本来は、ネットではむずかしい「時間をかけた熟議」の提供にあったはずである。その原点に戻ってもらいたいと思う。
※AERA 2018年10月8日号