――そうした業績が評価されての学会賞ですね。
正直に言って、びっくりしました。中性子の研究は大きな加速器や原子炉を使うのが王道だったところへ、なるべく小型の装置をつくって社会インフラの保守点検やものづくり現場での非破壊計測に使おうという、まったく新しい分野に挑み、実際に使えるところまで持ってきた点が評価されたと聞きました。
大学院での専門は理論物理でした。博士号を取ったあとに中性子の実験を始めたのですが、最初はもっぱら(現代物理学の基本である)量子力学の基礎に対する関心からでした。34歳のときフランス・グルノーブルにある世界一の中性子線施設で実験しましたが、本当に楽しかった。そのころから、まずは基礎科学の研究をし、50歳ぐらいから社会に貢献する研究をしようと思っていたんです。
――へえ、きちんと人生設計をされていたんですね。理研に入ったのは35歳のときですね。
早稲田大学の博士課程を修了してすぐ、茨城県ひたちなか市にある国立の茨城工業高等専門学校(茨城高専)に就職しました。「量子力学を教えられる人を探している」というので応募しました。
学科主任の先生は「若い人は外に出そう」という方針で、研究を奨励する方でした。高専には週に4日行けばよく、1日は研究に専念する時間と費用を確保してもらっていたので、母校や近くの筑波大学に定期的に通いました。
一方、東海村が近かったので、原研(現・日本原子力研究開発機構原子力科学研究所)の3号炉で実験も始めました。大学院最後のころから共同研究を始めた京都大学の実験グループが中性子干渉を観測する設備をゼロからつくるところで、「近くにいるならちょっと手伝って」と言われ、京大の院生さんと一緒に床に線を引くところから始めた(笑)。実験は無理だと思っていましたけど、一つひとつ教えてもらって、だんだんのめり込んでいきました。
1993年には京大大学院の物理の研究室に1年間、内地留学しました。文部省(当時)にそういう制度があったんです。もっと研究したくなって中性子研究の中心地フランスに行き、このときは半年休職しました。帰国して半年後に理研に入りました。