批評家の東浩紀さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。
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ぼくは今回の選挙期間中、「積極的棄権」を提唱していた。棄権を、有権者による「選挙そのものへの否」の意思表示として積極的に捉えようという呼びかけである。ネットで賛同者を募り、5千人を超える署名を集めた。
棄権が白紙委任と捉えられることは知っている。選挙権は民主主義の根幹をなす神聖な権利であり、みだりに放棄すべきものでもない。けれども今回についてだけは、棄権を考えるのもアリだと訴えたくなった。というのも、このひと月ほどの混乱は、候補者の選択以前に、そもそもこの選挙の「ルール」、それ自体が大きな歪みを抱えていることを示すもののように思われたからである。
ここでのルールとは公職選挙法だけを指すのではない。国政選挙を取り巻く政治状況、メディア環境のすべてを指す。解散権の総理の占有、小選挙区制、ワイドショーに支配されたマスコミとネット、それらが組み合わさり生み出された現在の日本政治の「ルール」は、中道の立場にきわめて厳しいものになっている。極右でも極左でもない、まともにものを考え訴える人々の勢力は、ポピュリズムにのみ込まれ消える運命にある。実際今回、民進党は、政権交代の夢に惑わされ、あっというまに自壊してしまった。いまは立憲民主党の伸長が伝えられるが、それも近い将来同じ困難に直面するだろう。
じつはこれは日本だけの傾向ではない。世界どこでも、極端な主張が勝利し中道は消える傾向にある。近代民主主義が生まれたときにはネットもポピュリズムも存在しなかった。民主主義はいま、新しいメディアとの接触で、中道を排除する「お祭り」の装置へ急速に変質しつつあるのだ。ぼくたちは、一歩立ち止まり、この状況そのものへ反省を向ける必要がある。
本稿掲載時には衆院選開票は終わっている。国民の審判がどう出たかはわからない。とはいえ、これからも、友と敵、権力と反権力に分かれて選挙が繰り返され、またすぐ忘れ去られる状況が続くのはまちがいない。本当に深刻な危機は、この不毛な劇場=お祭りの反復にある。ぼくたちは、いつかこのサイクルを抜け出せるのだろうか。
※AERA 2017年10月30日号