タレントでエッセイストの小島慶子さんが「AERA」で連載する「幸複のススメ!」をお届けします。多くの原稿を抱え、夫と息子たちが住むオーストラリアと、仕事のある日本とを往復する小島さん。日々の暮らしの中から生まれる思いを綴ります。
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日本女子大学がトランスジェンダーの学生の受け入れを検討していると報じられました。小山聡子副学長は「『女子とは何か』の判断基準の検討は、女子大の価値や存在意義を考えることに重なる」と述べています。
身体的な特徴が女性であれば女子なのか、気持ちが女性であれば女子なのか、そもそも「女性」とは……?
私は中高6年間、女子校で学びました。その間、一度も「女子とは何か」と考えたことはありませんでした。女性として育てられ、自分でも女性だと思っていた上、周囲に同年代の男性がいなかったため、何が女性かを発見することができなかったのです。
男性を見て、自分と同じだと思ったことはありません。でも、女性を見てもやはり、自分と同じではないと感じます。体の形はみんな違うからです。あんな形の体だったらよかったのにな、と思うことはあります。そのように思う体の持ち主は全て生物学的には女性ですので、私は女性の身体を持ちたいと思っていることは確かなようです。でもそれだけで、女性がなんであるかを知っているとは言えません。
母校では「女性らしく」とは言われませんでした。「この学校らしく。しかしそれが何かは自分で考えなさい」。この教えのおかげで、自分で考えることを大事にする習慣が身につきました。
「女子とは何か」はすぐには答えが出ません。「男子ではない私」の証明なのか、それとも「女子という何かでは説明しきれない、個別のものである私」に気づくことなのか? いずれにしろ、その問いを持たないではいられない状況があるのは確かです。
「らしさ」に息苦しさを感じる人がいる一方で、安定できる人もいます。自認する「私」の形は人の数だけある。性別に限らず、自分が何者であるかを他人に決められることのない世の中であってほしいです。
※AERA 2017年4月10日号