今はまだ逡巡の中にあるM君だが、これまで取材に応じた現役詐欺プレーヤーたちは、その逡巡を突き抜けた者たちだ。親の経済的事情で大学を卒業できなかった者、中学卒業後に「出社と同時にスクワット100回」というブラックな営業代行会社を経験した者、M君同様に少年院を経験し、その中でスカウトを受けた者。同級生の親や祖父母に生活保護受給者が何人もいるという「地域そのものが貧困」なエリアの出身者もいた。カバンの中に、中学生用の学習参考書を忍ばせていた20代もいた。

 いずれにせよそこに共通するのは、与えられなかった者として、「富める者」としての高齢者へのギラギラした敵意と、「ここで成功しなければ」という自らへの追い込みだった。

●自助的に居場所作る

 痛感するのは、まず子どもの貧困が今に始まったことではなく、それを見過ごし放置し続けた結果がこの世代間対立構図なのではないかということだ。現在詐欺の現場を支える世代は、そのローティーン時代を2000年代に過ごしているが、当時から今に至るまで「日本に子どもの貧困なんてあるの?」という声は絶えない。

 そしてもうひとつは、子どもの貧困には親の放任と育児放棄がセットになっていること。放任された子どもたちは、寂しさを抱えた自らの居場所を、福祉や支援者に求めるのではなく、自助的に自ら作り上げるということだ。

 例えばM君のケースなら、地元で問題を抱えた児童が集団化していたわけだが、周囲の大人は彼らを貧困の中にある子どもではなく、あまつさえ犯罪者予備軍として扱った。なぜ彼らを幼い頃に救い上げてやることができなかったのか。

「犯罪のルーツに子どもの貧困がある」と発言すれば、必ず返ってくるのが「貧困の中で育った子どもの全てが非行に走るわけではない。それは差別を助長しかねない」といった反論だ。しかしそれは本来支援の対象だった子どもたちを、「道を外れた」時点で支援対象から外すと言っているに等しい。その代替として、非行や犯罪に繋がる自助的グループが彼らのセーフティーネットとして、居場所や飢えを満たすものになっているというのならば、いっそう彼らは明確な反逆の意思を持って社会に牙をむくだろう。

 詐欺の現場で働く若者たちは、総じて非常に優秀で、正常な教育と環境を与えれば社会に大きく貢献できたであろう者が多い。将来の社会を支えるはずだった人材を、社会から奪う犯罪者に変えてしまう。それが子どもの貧困を「無きもの」にしてきた結果ではないのか。

 年間550億円という特殊詐欺犯罪の被害額よりも、これらの人材を一般社会の生産に生かせなかった損失はそれ以上に大きいのではないか。これが取材を続けての実感だ。

AERA 2015年5月25日号

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