イスラム国の手から救うことができなかった、人質の命。なぜ救うことができなかったのか、日本総研理事長・寺島実郎さんはこう見る。
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今回の人質事件は、日本外交が、民族と宗教と利害が絡み合った中東という恐ろしい地域の「陥穽」にはまった結果だと考えています。
日本の中東外交の原点は1973年の石油危機。資源確保のため、「アラブ友好国」という立場を選びました。親イスラエル、反イランの米国とも一線を画し、日本外交の中で対中東だけはユニークな立ち位置を取ってきました。
英仏や米国など欧米の大国の介入に苦しんだアラブの国々からは、日本は例外的に武器輸出もせず、軍事介入もしない国だと敬意を持たれてきました。戦後の日本が蓄積してきたこの「温度差」を見失ってはいけない。
安倍首相は今回の外遊でエジプト、ヨルダン、イスラエルという不安定で揺れている地域に踏み込んだ。軍部が民主化政権を崩したエジプトや、米国も手こずる強硬派のネタニヤフ首相のイスラエルとの握手は、穏健派のアラブの人々にも奇異な印象を与えたのです。日本はヨルダンを頼りましたが、ヨルダンはイスラム国と戦闘状態にある国で、紛争当事国です。その結果、捕虜と死刑囚の交換という生臭い話に巻き込まれてしまった。
今回、解決にはぎりぎり二つの可能性がありました。一つはイスラム国に独特なスタンスを持つトルコ。トルコはイスラム国に49人の人質を解放させ、特殊な交渉力のあるパイプがある。もっと重要なのは2004年の日本人人質3人の解放で効果を発揮したイスラム聖職者会議です。「後藤さんはイスラム国と敵対する人じゃない。殺すべきじゃない」と語りかけられる人々に頼れなかったのか。トルコと聖職者という2枚のカードが機能しなかったのは残念です。
※AERA 2015年2月16日号より抜粋