国立競技場スタジアムツアー最終日。平日にもかかわらず、6千人が詰め掛けた。グラウンドの芝をそっとなでたり、観客席に腰掛けて思い出の試合を振り返る姿も見られた(撮影/写真部・松永卓也)
国立競技場スタジアムツアー最終日。平日にもかかわらず、6千人が詰め掛けた。グラウンドの芝をそっとなでたり、観客席に腰掛けて思い出の試合を振り返る姿も見られた(撮影/写真部・松永卓也)
1964年、東京五輪の開会式。ジェット機が澄みわたる青空に五輪のマークを描いた (c)朝日新聞社 @@写禁
1964年、東京五輪の開会式。ジェット機が澄みわたる青空に五輪のマークを描いた (c)朝日新聞社 @@写禁

 5月6日、GW最終日、風が冷たく肌寒い国立競技場(東京都)で、Jリーグの浦和対甲府戦が開催された。試合終了後、この場所でのJ最終戦ということで、聖火台点灯セレモニーがあり、両チームのサポーター代表が火を灯した。その力強い火の勢いは、50年前の東京五輪と少しも変わらなかったが、器は次の五輪開催に向けて造り替えられる。

 ラグビーでも、ここを舞台に様々なドラマが繰り広げられた。1983年度から全国大学選手権3連覇を果たした同志社大の中心メンバー、平尾誠二さん(神戸製鋼コベルコスティーラーズゼネラルマネージャー)は、グラウンドと観客席最上部の大きな高低差を指して、「古代ローマの象徴であるコロッセオを、私には彷彿(ほうふつ)させます。人間は、このような場所では、本来持つ闘争心が駆り立てられるのではないかと思います」と語る。

 70年代から90年代にかけて、全盛期を迎えていたラグビーを支えていたスター選手の一人、サムライセブン/A.P.パイレーツ監督、明治大出身の吉田義人さんは、

「僕の国立デビューは、高校3年生の時。日本選手権決勝の前座試合の東西対抗でした。競技場の大きさに圧倒されました」

 慶應大がトヨタ自動車を破り、学生が初めて日本一になった時のことを鮮明に覚えている。この時、吉田さんは、慶大の若林俊康選手の俊敏な動きをしっかりと追っていた。

「この人を超えなければ、JAPAN(日本代表)はないな、と考えていました」

 91年1月、早大との決勝では、今泉清選手らのタックルを振り切り、逆転トライも決めた。

 2人の母校、早稲田と明治は数々の名勝負を繰り広げてきた。昨年12月、国立最後の早明戦。試合は早大15-3明大で幕を閉じ、クロージングセレモニーにグレーのワンピースに身を包んだ松任谷由実さんが夫・正隆さんと姿を現した。

「すべてのラグビーOBに捧げます」

 ユーミンが正隆さんの伴奏に合わせて「ノーサイド」を歌い始めると、場内は水を打ったように静まり返った。スクリーンに早大の主将・垣永真之介選手の涙が映し出された。

AERA  2014年6月2日号より抜粋