そういうわけで寅さん素人の僕だが、初めての「男はつらいよ」の冒頭から画面に釘付けになった。なぜこれまで観てこなかったのだろう。「涙と笑いの」と言いたいところだがとんでもない。ひたすら涙・涙・涙。寅次郎は旅から戻らず、歴代のマドンナを含めてみんな年を重ねた。何しろ半世紀だ。でも、物語のそこかしこで寅次郎がふっと現れ、「困ったことがあったらな、風に向かって俺の名前を呼べ。おじさん、どっからでも飛んできてやるから」と言う。ベージュチェックの背広を肩にひっかけ、ダボシャツに腹巻、背広と同じ色の帽子と素足に雪駄、お守りを首から下げた彼のセリフに重なるように、これまで僕がお世話になった、今は亡き人たちの笑顔や声、叱られたことや優しくしてもらった思い出が次々に浮かび、号泣するしかなくなった。

「ただ寅さんだけが年齢不詳で、幻影のように現れる。寅さんは時空を超越している。そこに原型があるというか、永遠になったってことだな」と山田洋次監督は語る(日本経済新聞12月14日付)。「並外れた役者」(山田監督)だった渥美清さんは、いなせで粋で、撮影中は代官山のアパートメントに住み、きちんとした洋装でビストロに通ったという。撮影が始まると帝国ホテルにあった理髪店で髪を揃え、雪駄を履くからペディキュアで足の爪を綺麗に輝かせた。

 僕が大学生の頃だ。渥美さんを日比谷公園で見かけたことがある。一人ベンチに座っていた。通りがかりの女性がサインを頼んだ。渥美さんは表情を崩すことなく、手を差し出して無言で色紙を受け取り、サラッと名前を書いていた。

 日比谷公園は帝国ホテルの目の前だから、きっと撮影の本番前だったのだろう。今なら演者としての孤独感を感じたなどと書くのだろうが、当時の僕にとっては、気軽に声をかけてはならない、ただただ近寄りがたい厳しい印象の役者に思えた。

週刊朝日  2020年1月17日号

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