鷲田清一さん (c)朝日新聞社
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梅原猛さん (c)朝日新聞社
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 2019年も残りわずか。今年も多くの人がこの世を去った。別れの言葉には、さまざまな思いが込められている。共に過ごした思い出、伝えられなかった気持ち。今、あの人に語りたいメッセージ。

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梅原猛さんへ

鷲田清一(哲学者)
※4月21日 京都市下京区のホテルグランヴィア京都で

■だれもが認める「破格の人」

 梅原猛先生。あなたはだれもが認めるように、「破格の人」でした。「破格」というのは、群を抜いている、誰も追いつけない、という意味です。一つの極限(extreme)と言ってもいいかもしれません。そういう極限が幾つか、岬の灯台のように遠くからはっきりと見える町は、どこか自由です。ああ、あそこまでやっていいんだ、人はあそこまでできるんだと、そこに集う人たちの可能性を拡げてくれるからです。

 先生の「破格」はしかし、上に独り聳えるものではなく、私たちと一緒にまみれてくださる「破格」でした。哲学の研究会の後の酒席でも、徳利を片手に若造の席にやってきて、気軽に話を聞いてくださる方でした。ただ、その話に、訴えに、先生の好まれる言葉でいえば<実存>や<願>が賭けられていないと思われたときは、どこ吹く風というか、心を別のほうに泳がせておられるようでしたが、こちらの疼きがちらっとでも聞こえたときは、じっと聴き入り、最後はいつものように「まあ、頑張るんやな」と一言残して、席を移られるのでした。悴んだ心を先生の掌でそっと温めてもらったような心地がしました。

 先生の後輩はみななにがしかそういう経験をしてきました。

「破格」といえば一つ、忘れられない思い出があります。先生は憶えておられないかもしれませんが、かつて京大の教養部におられた磯江景孜教授がまだ駆け出しの頃、重苦しい相談事があって、やむにやまれず、先輩である先生宅を訪れられたことがあります。その日のことを磯江さんは後輩の私にしみじみと語ってくださったのですが、それがなんともすさまじいものでした。

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