「そのときに設定したのが乱太郎。乱視でめがね、そばかす、そして髪の毛が柔らかそうな設定は、当時の私がそうだったから。だから、乱太郎は私の分身でもあるんですね。そうやって考えていたんですが、(担当者から)『忍者ものがいい』と言われた。それで、学園ものだったら共感してもらえるかなと思って、忍術学園という架空の学校を舞台にすることになりました」
誤算もあった。どんな忍術が実在したのかリサーチしても、当時は忍術や忍者関連の資料が少なく苦労したという。三重県伊賀市の図書館に協力してもらい、資料のコピーを大量に取った。忍者の里として知られる伊賀市や滋賀県甲賀市など、各地の博物館をまわり城や民家の構造も調べた。歴史絵巻も読み込み、骨董(こっとう)品店で火縄銃を買ったこともあった。
「初期の頃は、原稿料は全て資料代と取材費につぎ込んでいた。当初は連載期間は3カ月だけの予定で、描ききっていい経験させてもらえたなと思っていたら、『もう1回やりませんか?』と。あんな絵でも子供たちが喜んでくれたみたいで、それが積み重なって33年間になったんですよね」
昭和、平成、令和をまたぐ連載を終え、作品がここまで続くとは想像していなかったという。「人生はまさかの連続」と振り返る。
「コミックスになるあてさえなかった漫画が、まさかアニメに、映画に、舞台になるとは。今後は、アニメの脚本もやりたいし、笑いを交えた小説で忍たまを紡いでいくのもおもしろい。乱太郎たちに絡めて古典のお話などを子供たちに提供できたら、おもしろいかなと思っています」
アニメなど関連作品は今後も続く見通し。尼子さんは病気とつきあいながら、乱太郎たちが活躍する新たな物語を生み出してくれそうだ。 (本誌・緒方麦)
※週刊朝日オンライン限定記事