人間としてのあり方や生き方を問いかけてきた作家・下重暁子氏の本誌新連載「ときめきは前ぶれもなく」。今回は「喪失を抱きしめること」。
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「ノートルダム大聖堂へお願いします」
聞くなりタクシーは勢いよく走り出した。
正面より少し手前で停めると、
「ここが一番よく見える」
運転手は手慣れたものだ。
あの大聖堂焼失事件以来、その現場を訪れる人が内外ともに増えたという。
外から見ると、崩落した部分を除いて、残った部分はそのまま。日本のように、布でほうたいのように覆って外部から見えなくするという姑息なことはしていない。
だから、昔の姿と比べてどう変化したかがよくわかる。セーヌ河に沿って、シテ島をノートルダムの後部にまわると、横からの眺めは変化がないようにも見える。
今回(九月末)、私にはパリでどうしても行きたい場所が二カ所あった。一つは焼失したノートルダム大聖堂。いつもは待ち合わせ場所に使うことはあっても通り過ぎるだけで、その概要を片目で確かめる程度だが、できるかぎり近づいてしげしげと眺めた。
探していたものがあったのだ。それはノートルダム大聖堂の屋上の角から見下ろしている怪物の石像。人のようでも、獣のようでも、鳥のようでもある。
あの石像を見るのが楽しみだった。「ノートルダムのせむし男」などの舞台にも、天井をあらわすために設置されていた。
火災の第一報を聞いた時から心配だった。信仰心にとぼしい身としては、最も興味があるものの行方が気にかかる。
それにしても西洋の教会はなぜ、半獣半人の姿をした奇妙なものが守っているのだろうか。
その多少滑稽で不気味な姿にこの上ない親しみを覚える。大聖堂の荘厳さに比べ、どこかほっとさせられるのだ。火災の映像を何度も注意深く見たが、屋根の上に怪物の姿は発見できなかった。
無事、地上へ下ろされたのか、まさか、粉々に砕けたなどということはないだろう。薄汚れた聖堂をめぐって何度となく探したが、石像の姿はなかった。どこかに大切にしまわれていると思うことにした。