放送作家・鈴木おさむ氏の『週刊朝日』連載、『1970年代生まれの団ジュニたちへ』。今回は「死を受け入れ学ぶということ」。
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僕の父が今年の2月に76歳で亡くなり、半年が経ちました。がんで闘病していたので、亡くなる前は、「もう父が死んでしまう」と思いながらお見舞いに行く。父がいなくなってしまうんだという寂しさと共に。
でもなぜだろう。亡くなってからが現実感がなかった。遺体の父を目の前にしても。火葬されて骨になった父を見ても。父が旅立ったという現実味がない。まだ存在している気がしていた。
亡くなる前のほうが、「父が死んでしまうんだ」という寂しさでいっぱいだったが、いざ旅立った後は、なかなかしっくりこなかった。父はがんだったので、その覚悟と準備ができたが、突然、親族が亡くなられた場合ってどういう気持ちになるのだろうか?
亡くなってからしばらくは亡くなったことがしっくりこず、現実感がなかったのですが、四十九日の法要を終えて、父の遺影をもらい、家に飾りました。祖母の横に。毎朝、神棚に手を合わせ、そのあとに、祖母と父の遺影の前の水を替えて手を合わせます。百箇日の法要を終えた頃からでしょうか。毎朝、父の写真に手を合わせるたびに、ようやく「父はいなくなったんだ」と沁みるようになりました。初盆が近づき、母から初盆の準備の連絡が来たりして。去年のお盆は父がまだ生きていたけど、今年は、お墓に父を迎えに行くことになる。
行事って、本当によくできているなと。四十九日、百箇日、初盆……。亡くなった人のことを徐々に受け止めて思い出に変えていくために、法要があったり行事があったりするのかなと僕は思ったり。
7月。父の親友が77歳でお亡くなりになりました。近所に住んでいて、父とはゴルフに行ったりお酒を飲んだり、お互いの家を行き来したり。その方も闘病されていて、あまり調子は良くなかったのです。