中と外を隔てているのは、窓ガラス一枚。いつも外に立って、先輩たちのサウンドに浸っていました。でもあるとき、よく知っている曲が始まったんです。いてもたってもいられなくて、楽器を吹きながら中へ飛び込んじゃった。

 びっくりされましたけど、すごく褒めてもらえて、歓迎された。そのあと近くの中華料理屋でチャーハンおごってもらったっけ。おいしかったなぁ。そこで榎本兼保さんというベーシストのバンドに入れてもらって、厚木や立川の米軍キャンプをまわり、箱根の富士屋ホテルに1年ほど仕事で滞在したりもしました。

――転機は29歳のとき。日本のトップピアニスト秋吉敏子の勧めで、米国留学のチャンスをつかんだ。

 秋吉敏子さんと出会って、1953年には秋吉さん率いるコージー・カルテットに参加。そのうち、秋吉さんがボストンのバークリー音楽院(アメリカ・マサチューセッツ州)に留学することになったんです。僕は彼女のあとを継いでバンドリーダーになったんですが、それが経済的に厳しくてね。何とか食いつないでいたところへ、彼女が日本へ凱旋公演に来て「私がフルスカラシップ(全額奨学金)をとりつけてあげるから、あなたも留学なさい」と。

 うれしい一方、迷いましたね。僕はそのときすでに結婚していて、子どももいた。それで妻に相談したんですよ。そうしたら彼女「あら、ゴキゲンじゃない! 行っといで行っといで!」ってね。妻はきっぷがよくて、僕が持っていない気質をすべて持っている女性でした。

■耳がオープンに 心が開かれた

――アメリカでは、文字通り音楽漬けの毎日となった。入学後は、昼は理論の勉強や学友たちとのセッション。夜は恩師、ハーブ・ポメロイとバンドを組んでジャズ・クラブでの演奏に明け暮れた。今ではブラジルやアフリカの音楽も積極的に取り入れることでも知られる渡辺貞夫だが、その音楽の幅を広げるきっかけの一つは米国留学だった。

 4年間ボストンにいるつもりが、途中でニューヨークでの仕事が始まりました。ニューヨークにいるミュージシャンから、サックスとフルートのできるやつを探していると恩師のところへ打診があって、僕が推薦されたんです。

 そこで出会ったのが、ビブラフォン奏者のゲイリー・マクファーランド、同じバンドにいたギタリストのガボール・サボでした。

 ブラジル音楽を最初に聴いたときは「ダルな(dull:鈍い)音楽だな」とピンとこなかったのですが、ゲイリーの「ソフトサンバ」というアルバムがヒットして、ウェストコーストを10週間のツアーで一緒にまわるうちに、「ブラジルのリズムやテイストも面白い」と感じ始めたんです。それで、耳がオープンになったというか。それまで僕はジャズ以外の音楽に耳をふさいでいるようなところがあったんですね。留学前の7年間、日本フィルハーモニー交響楽団の創立時のメンバーで首席奏者だった、フルートの林リリ子先生の元でクラシックを学んだことも大きかった。

 少しずつ、いろんな音楽へと心が開かれていきました。ジャズも、僕が日本で追い求めていた演奏スタイルとは違う。のびのびと、心底演奏が楽しい。音楽の聴き方も、感性の幅が広がりました。

 でもね、渡米から3年半後、ニューヨークのイーストコーストで大停電が起きた。ブラックアウトですね。そのときは家族を日本に帰していたものだから、ホームシックで急に日本に帰りたくなってしまった。

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