もし、あのとき、別の選択をしていたなら──。ひょんなことから運命は回り出します。昭和から平成と時代を切り開いてきた著名人に、人生の岐路に立ち返ってもらう「もう一つの自分史」。今回はミュージシャンの渡辺貞夫さんです。転機は米国留学時代。耳がオープンになり、音楽の幅を広げるきっかけになったといいます。
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僕の人生はね、ほとんど憧れとコンプレックスから始まりました。ずっといい音楽とリズムを求めてきました。
10代でジャズを知りましたが、上京後のあの時代、ジャズ音楽を聴くにはLPレコードぐらいしかなかった。もちろん高くて自分では買えなかったので、有楽町にあったジャズ喫茶「コーヒーコンボ」に通い詰めた。毎日、仕事の前に寄って、帰りにまた寄って、そして仲間とセッションをする。
妻ともコーヒーコンボで出会いました。よく、僕と結婚してくれたと思います。当時、バンドを組んで音楽を仕事にするのは「楽隊」というイメージです。妻に結婚してくれた理由を尋ねたら、「本当に音楽が好きで、よく練習していたから」と。
当時の僕は音楽の理論を習ったこともなければ、譜面の読み方も知らなかった。朝から晩までとにかく練習するしかなかったんです。
■2年間だけ好きにやらせて
――12歳のとき、故郷の宇都宮市で終戦を迎えた。戦車を先頭に行進する米軍兵の姿を目の当たりにして、軍国少年はすっかり圧倒された。
戦時中、学校でやっていたのは軍事教練です。終戦間際の入学試験の問題は「特攻精神とは何か」でした。海外の音楽を聴くどころか、外国人を見たこともありませんでした。
それが終戦後、実際に目にした、ゲートルを巻いたGI(米国軍人)がかっこよくて。ラジオからは米軍放送が流れてきて、ポップミュージックはもちろん、美しいハワイアン、踊りだしたくなるようなラテンミュージック……。明るいリズミックな音楽を聴きたくて、毎日ラジオにかじりついていました。