もし、あのとき、別の選択をしていたなら──。ひょんなことから運命は回り出します。人生に「if」はありませんが、誰しも実はやりたかったこと、やり残したこと、できたはずのことがあるのではないでしょうか。昭和から平成と激動の時代を切り開いてきた著名人に、人生の岐路に立ち返ってもらい、「もう一つの自分史」を語ってもらいます。今回はタレントのデヴィ・スカルノさんです。
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私のインスピレーションとなり、力の源泉となり、我が人生の喜びとなってほしい──。100年生きても200年生きても、こんな美しいプロポーズを聞くことはできないでしょう。天啓だと思いました。
19歳のとき、インドネシアの建国の父スカルノ大統領と結婚しました。元首からいろんなことを学び、聴き、普通の人とは違う角度から世界を見ることができました。それは貴重な経験だったと思っています。
ただ、もう一度、19歳に戻ったとしても同じ人生を選ぶか……。そうですね、それはわかりません。
――プロポーズを受け入れ、インドネシアに渡ったデヴィ夫人。当時の決断に迷いはなかったが、結果として、大きな犠牲を払うことになった。
いちばん心配だったのは母と弟のことです。母は心臓に病気を抱えていて、飛行機に乗れるかどうかもわからない。弟は早稲田大学に通っていて、ゆくゆくは留学させたいと思っていました。
私も若かったし、非常に気負っていたので、「娘がいたこと、姉がいたことは忘れてくれ」という冷たい言葉を二人に言ったことを覚えています。断腸の思いで、母と弟を日本に置いていきました。
――1959年にインドネシアに行った私は、日本のマスコミから大バッシングを受けました。週刊誌を開くと、根も葉もないうそがさんざん書かれている。当時は国際電話なんてできる状況ではありませんから、娘のそんな記事を見て母はどれだけ心配し、つらかったことか。心労が重なり、62年2月に亡くなりました。