デヴィ・スカルノ(通称・デヴィ夫人)/1940年、東京都生まれ。インドネシア元大統領夫人。イブラ音楽財団名誉会長。「マスコミには40年以上ひどい目に遭い続けてます。編集部に爆弾を投げつけてやりたいくらいの週刊誌がいくつもあるわ。おたく(週刊朝日)じゃないわよ。ご安心あそばせ」(撮影/小山幸佑)
デヴィ・スカルノ(通称・デヴィ夫人)/1940年、東京都生まれ。インドネシア元大統領夫人。イブラ音楽財団名誉会長。「マスコミには40年以上ひどい目に遭い続けてます。編集部に爆弾を投げつけてやりたいくらいの週刊誌がいくつもあるわ。おたく(週刊朝日)じゃないわよ。ご安心あそばせ」(撮影/小山幸佑)
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 もし、あのとき、別の選択をしていたなら──。ひょんなことから運命は回り出します。人生に「if」はありませんが、誰しも実はやりたかったこと、やり残したこと、できたはずのことがあるのではないでしょうか。昭和から平成と激動の時代を切り開いてきた著名人に、人生の岐路に立ち返ってもらい、「もう一つの自分史」を語ってもらいます。今回はタレントのデヴィ・スカルノさんです。

*  *  *

 私のインスピレーションとなり、力の源泉となり、我が人生の喜びとなってほしい──。100年生きても200年生きても、こんな美しいプロポーズを聞くことはできないでしょう。天啓だと思いました。

 19歳のとき、インドネシアの建国の父スカルノ大統領と結婚しました。元首からいろんなことを学び、聴き、普通の人とは違う角度から世界を見ることができました。それは貴重な経験だったと思っています。

 ただ、もう一度、19歳に戻ったとしても同じ人生を選ぶか……。そうですね、それはわかりません。

――プロポーズを受け入れ、インドネシアに渡ったデヴィ夫人。当時の決断に迷いはなかったが、結果として、大きな犠牲を払うことになった。

 いちばん心配だったのは母と弟のことです。母は心臓に病気を抱えていて、飛行機に乗れるかどうかもわからない。弟は早稲田大学に通っていて、ゆくゆくは留学させたいと思っていました。

 私も若かったし、非常に気負っていたので、「娘がいたこと、姉がいたことは忘れてくれ」という冷たい言葉を二人に言ったことを覚えています。断腸の思いで、母と弟を日本に置いていきました。

――1959年にインドネシアに行った私は、日本のマスコミから大バッシングを受けました。週刊誌を開くと、根も葉もないうそがさんざん書かれている。当時は国際電話なんてできる状況ではありませんから、娘のそんな記事を見て母はどれだけ心配し、つらかったことか。心労が重なり、62年2月に亡くなりました。

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