自活自戦、永久抗戦――これがルソン決戦の日本軍の戦闘方針だった。弾薬も食糧も補給されない中、少しでも長く米軍をこの地に引きつけ、本土への侵攻を遅らせるのが使命だった。
将兵は、日中は塹壕にこもって艦砲射撃や空爆に耐え、夜には決死隊を組んで米軍陣地に斬り込んだ。敵の戦車が来れば、爆弾を抱えた兵士が体当たりをした。多くはマラリアやデング熱にかかり、飢えていた。家屋や田畑を荒らし、ネズミやヘビも口にした。弱った者は自決、あるいは置き去りにされた。
あれから71年。「死の谷」とも呼ばれた山岳地帯の北部に広がる棚田群は世界文化遺産になった。だが、肉弾戦の名残は消えていない。兵器の残骸、慰霊碑などが静かに当時を物語っている。
日本側の死者の多くは戦闘死でなく、餓死、病死だった。「皇軍」には捕虜になることが許されなかったのである。
※週刊朝日 2016年2月12日号