ノーベル賞物理学者の益川敏英(75)さんは、安保法制に関して異議を唱える。その理由は……。
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僕は戦争の記憶がある最後の年代だと思う。だからこそ、反対し、声を上げていかないといけない。
5歳だった1945年3月、名古屋市が空襲を受けた。自宅の屋根と2階を突き破り、土間にいた僕の目の前に焼夷弾(しょういだん)が落ちてきた。運良く不発弾だったけれど、爆発していたら僕は今ここにいない。自宅そばの公園が陸軍の高射砲撃地になっていたから、B29の標的になっていたのです。わが家は幸い焼けなかったけれど、街は火の海に。両親が、家財道具一式を積んだリヤカーの上に小さかった僕を乗せ、逃げ惑う姿が今も脳裏に焼き付いています。
疎開を経て市内の小学校に入学しましたが、校舎は戦火で焼け残った鉄工所。土の床に机を並べ、1クラス70人で勉強しました。校庭には爆弾が落ちてできた直径30メートルくらいのお椀形の穴が開いていた。幼いころは戦争の恐ろしさがよく理解できず、この穴は格好の遊び場になり、公園に残っていた砲座もくるくる回して楽しんでいたほどです。
そんな僕が、戦争は怖いと実感したのは中学生のとき。ベトナムが独立を目指したインドシナ戦争を報じる新聞記事を読み、なんてむごいことをするんだと思った。その後ベトナム戦争が起き、米兵が人前で平然と捕虜を撃ち殺している写真を見た。衝撃だった。戦争は人の心を壊し、獣に変えてしまうものだと思いました。
大人になって科学者になり、違った立場から平和を考えるようになりました。科学は、直接的でなくても、軍事的に悪用されてしまうことがある。