一瞬にして広島と長崎の街の姿を変え、20万人近くの命を奪った原爆。戦争が二度と起きないように、そして原爆が二度と落ちないように──。被爆者の祈りは年を重ねるごとに強くなっている。
中学校に通うため、軍艦島(長崎市)の実家を出て長崎市大浦に下宿していた加地英夫さん(82)は、下校途中の路面電車で被爆した。
当時、加地さんは長崎県立瓊浦(けいほ)中学校の1年生。血気盛んな12歳だった。7月下旬には、長崎への空襲も激しくなり、沖縄戦のニュースも聞いていた大人たちは、「負けるのではないか」と不安の声を上げていた。「絶対に神風が吹いて、日本は勝つ」。加地さんは、そう思っていた。
8月9日は1学期末試験の最終日。英語の試験が終わり、早く帰って遊ぼうと、浦上駅前から大浦に向かうため、路面電車に乗った。
電車は稲佐橋(長崎駅から約1キロ、爆心地から約2キロ)の付近で停車。
「電線の故障のようでした。どれくらい止まっていたでしょうか。かすかに爆音がしました。また空襲が来たのかなと思っていたのですが」
その爆音が次第に強くなって、急降下するように聞こえてきた。
そのとき、ピカーッと前後左右から黄白色の閃光(せんこう)が入り、目がくらんだ。同時に、左ほほに熱線を感じて、「あっつー」と手で押さえ、しゃがみこんだ。
「ガスタンクに爆弾が命中して爆発したのかもしれない」と思っていると、「ドカーン」。百雷の音が響いた。電車のガラスが割れ、頭の上から破片が降りかかり、強烈な爆風で電車が揺れた。
「どうしよう? 早く逃げよう、山のほうへ」
起き上がり、その光景に驚いた。いつもの長崎ではない。家並みは薄暗く、水墨画で描いたような情景だった。