「死骸を乗り越えてやっとここまで来たのよ」。包帯からのぞいた目がパチパチとまばたきする。

「こんなに犠牲が出る前に、天皇陛下はなぜ終戦の決断をしてくれなかったのか、と恨んだこともあります」

 あまりに無残な友の姿に、小林さんは震えが止まらなかった。おびえながら生きた時代の記憶だ。

 千葉県の関根哲人(てつじん)さん(83)は、東京の空襲で親友を失った。爆音がやんで、外の様子を見ようと隅田川にかかる蔵前橋を渡ったとき、B29の爆撃に遭った。

「彼の首から上が吹き飛んでいました」(関根さん)

 東京大空襲の翌朝、墨田区の両国にある旧制中学校へ行くと、バケツとゴミばさみが配られた。生徒たちは、学校の周りに散らばるちぎれた手や足を拾い、頭は埋葬場に集めた。

 そんな体験をしてもなお、軍国少年として教育されていた関根さんは、日本の勝利を信じて疑いもしなかった。神様と同じ存在と教えられた天皇への尊崇の念も揺らぐことはなかった。

 昭和20年の8月15日。自宅アパートの管理人から声をかけられた。「正午から天皇陛下の重大発表があるので、自分の部屋まで来るように」。

 関根さんは、天皇陛下はラジオ放送で「一致団結して最後の一兵まで戦え」と叱咤(しった)激励するだろうと思い込んでいた。隅田川のほとりに立つ三囲(みめぐり)神社の森から蝉の鳴き声が聞こえてくる。住人が部屋でひしめき合うなか、「玉音放送」が流れた。戦争の終結を、関根さんはただ茫然と聞いた。

 そして昭和天皇は人間宣言をした。

「神だと信じた昭和天皇は戦後、にこやかな表情で民衆のなかに降りてきた。なにか、複雑な思いでした」

 戦争責任について思うことはあるが、自分の中で明確な答えは出ていない。

週刊朝日 2015年5月8-15日号より抜粋