東京大学工学部建築学科卒業後、ハーバード大学大学院建築修士課程を修了した槇文彦(まき・ふみひこ)さん(86)は、アメリカの建築設計事務所勤務などを経て、ワシントン、ハーバード両大学で教鞭を執った。その間、ワシントン大学スタインバーグホール(60年)、名古屋大学豊田講堂(同)、千葉大学医学部記念講堂(64年)などを設計。昭和40(65)年に帰国、東京に槇総合計画事務所を設立した。建築家として世界を飛び回る槇さん。昭和、そして未来がどう見えるのか。
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昭和39(64)年の東京オリンピックを機に東京の都市景観は大きく変わりました。また、高度経済成長によって都市も変わっていきました。前者で世界に誇れるのは新幹線の技術ですね。ソフト、ハードを含めた日本の技術の中でいちばん誇りにしていいものだと思います。一方、経済成長につれて都市規模も必然的に巨大化しました。建築物では霞が関ビルがその象徴とされましたが、いまや多くの高層ビルの中のひとつにしか過ぎなくなっている。大きなビルというのは、経済力があって規模が許せば、どこまでも大きく、あるいは高くできるもので、技術の成果とは思いますが、それ以上のものではないのでは、という気がします。
戦後の建物で印象に残るものがあるとすると、われわれ建築家にとっては昭和39年にできた丹下健三さんの国立代々木競技場になります。代々木という歴史のある風致地区に違和感なく近代建築が溶け込んでいる。僕たちは世界遺産に登録してもらうべきだと考えています。