相馬家33代目当主の相馬和胤(かずたね)氏は、ライバルの伊達政宗に助けられた歴史についてこういう。
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うちは、もともと下総(千葉県北部あたり)に領地がありました。初代の師常(もろつね)が奥州合戦で活躍して、源頼朝から今の福島県相馬地方をもらい、6代・重胤(しげたね)のときに拠点を相馬に移しました。私が33代になります。
初代からさらに11代前までさかのぼることもできます。一番最初の祖先は、平安時代の相馬小次郎将門。あなたがたは平将門(たいらのまさかど)というけれど、将門は相馬の姓を名乗っていたんですよ。
戦国時代の相馬家は、伊達家と長いこと対立していました。でも、単なる対立ではない、不思議な関係を保ってもいました。
関ケ原の戦いの直前、伊達政宗は大坂から仙台に戻ろうとしたけれど、上杉領は封鎖されて通れない。そこで政宗は、相馬家に領内を通りたいと願い出てきた。
そのときの政宗の手勢はわずかだったから、討ち取るチャンスだという家臣もいた。でも、16代・義胤(よしたね)は、助けを求めている者を討っても武門の誉れにならない、と通過を許しています。
直後の関ケ原の戦いで、相馬家は中立の立場をとりました。そのために、一度は家康に領地の没収を命じられてしまう。このときに、相馬家のため、家康に嘆願をしてくれた一人が政宗でした。そのおかげもあって、うちの領地は回復できたというわけです。お互いライバルとして認め合っていた部分もあるんだろうね。
有名な「相馬野馬追(のまおい)」は1千年以上続いている行事だけれど、もともとは将門が始めた軍事演習でした。江戸時代も神事として続けられ、明治以降は相馬家が東京へ移ってしまったから、当主不在で行われてきた。
1968年、私が婚約をして相馬地方へあいさつ回りをしていたとき、ある宴会で元家臣のお年寄りにこんなことを言われました。
「相馬野馬追に、ぜひお出になってください」
ただのお祭りだと思って断ると、その人は戦時中の体験談を語ってくれました。
第2次大戦の最後の年、相馬野馬追は中止のはずでした。でも、その人は先祖代々ずっと続けている伝統を途絶えさせるわけにいかないと思い、一人でも決行しようと鎧(よろい)を着て、家族に別れを告げ、神社へ向かった。すると、大勢の人が同じ思いで集まっていたそうです。米軍の飛行機が飛んでいる中、決死の覚悟で行われた相馬野馬追――。
命がけで1千年以上の伝統を守ってきた、という話でした。相馬野馬追は、彼らの魂であり、宗教のようなものだとわかりました。
「私で何かの役に立つなら、お手伝いさせてくだされ」
そう言って、私は出ることを了解しました。
相馬には相馬家の屋敷が残っていて、家宝の「毘沙門天(びしゃもんてん)の鎧」が飾ってあります。元家臣たちが「これはいけません」と言うのをふりきり、身につけて相馬野馬追に出たこともありました。このときは、後でずいぶん怒られたな。
相馬野馬追には7回ほど出て、あとは息子たちにまかせました。長男が15歳になった年に、「昔ならお前は元服だ」と言って、相馬の中村神社で元服の儀式をしました。そして、そのまま総大将として出したのです。今では、長男と次男が交代で出ています。2人とも、もう私よりベテランですよ。
(構成 本誌・横山 健)
※週刊朝日 2015年1月2-9日号