学校の授業でも習う戦国武将のなかには、今でも子孫が残り家を継いでいるケースがある。天下統一した徳川家もそのうちのひとつだ。徳川宗家第18代当主、徳川恒孝(つねなり)氏がその暮らしを明かした。

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 松平家から徳川家の養子になって、祖父・家正の家に越してきたのが、中等科にいるとき。千駄ヶ谷や原宿のころのお屋敷と比べたらだいぶ小さくなりましたが、家の事務関係の仕事をする男の人が3、4人と女中さんが4、5人、あと運転手と料理人がいました。

 こちらでの晩ごはんは5時半。早いんですよ。それに祖父母は70歳くらいの高齢者ですから、例えばお魚といえば白身だけ。味も薄い。大変お上品なちんまりとしたものです。育ち盛りの男の子には全然足りない。

 だから、こちらで晩ごはんを食べ終わると、「ちょっと行ってくるね」と言って家を出る。すぐ近くの松平の実家へ行くと、ちょうど晩ごはんが始まる時間帯です。私は4、5年間、晩ごはんを2回食べていたことになります。

 学習院初等科へ入学したのは昭和21年ですから、戦後教育の1期生です。ほどよく悪戯(いたずら)坊主で、ほどよく勉強する良い子でしたよ(笑)。タバコを吸い始めたのは高等科2年の終わり。学習院といえば行儀の良いイメージと思いますが、多くの生徒は同じころからタバコを吸っていました。見つかれば停学ですが、今よりは寛大だったのでしょう。

 

 旧華族の生徒が多かったので、歴史の授業は難しかったようです。なにしろ島津さん、毛利さんの隣に、徳川さんや松平さんが座ってますから。母の話では、鎖国をした徳川の政治が悪かった、という話が授業であったときに、母の妹が教室の隅でシクシクと泣きだしたそうです。日本史の先生も大変だったと思います。

 大学在学中に家正が亡くなって家督を継ぎ、卒業して日本郵船に入りました。生活のために民間の会社で働いた初めての当主になりますね。会社では、加賀前田家の当主と同じ部署だったこともあります。

 海外での仕事も多く、ニューヨークには、全部で6年間赴任しました。当時、アメリカでは「将軍SHOGUN」というテレビドラマが大ヒット。その後は大変でしたよ。「お前が本物のSHOGUNか?」と言って斬りかかる真似などをされて迷惑いたしました。

 日本クラブのパーティーで、あるアメリカ人の学者の方からこんなことを言われたこともあります。

「260年もの間、戦争もなく国を治めて、あれだけの文化を育てた政権というのは、歴史上ほとんどない」

 徳川がいかに偉大だったか、ということを懇々と説かれました。徳川の世は封建的で悪い時代だった、と私は習ってきた。鎖国をしていたことが、日本が世界へ出て発展することを遅らせた元凶である、と。だから、アメリカ人の先生からそういうことを言われて、非常に印象深かったですね。

 会社で特別扱いはありませんが、1年に2回、家の行事で休みました。家康公の命日、4月17日の久能山東照宮と翌5月17日の日光東照宮での例祭です。

 久能山も日光も、どちらも石段をずーっと行かないとお墓にたどり着かない。衣冠束帯を身に着けて石段を登るのは、とても難しいんですよ。それに、ここ1、2年は、体力的にだいぶつらくなってきました。早く後を継いでもらいたいのですが、長男には嫌がられています。

週刊朝日  2014年3月28日号