1959年12月14日から84年まで続いた北朝鮮帰国事業。在日朝鮮人と日本人妻ら9万3340人が新潟港から北朝鮮に渡った。北朝鮮が「地上の楽園」だという話を信じて渡った在日朝鮮人たちだったが、現実は大きく違っていた。当時、共産党で帰国事業に関わっていた小島晴則さん(82)は、朝鮮総連でも一部の最高幹部しか北朝鮮の実情を知らなかったと話す。当時の話をジャーナリストの前川惠司氏が聞いた。

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 北朝鮮の実像の片鱗に触れたのは、64年7月だった。日朝友好青年使節団5人の一人として訪朝したのだ。小島さんの資料では、すでに8万1539人を「北の楽園」へ見送っていた。平壌の夜は真っ暗だった。街角で見かける女性の肌が汚れていた。車のタイヤはすり減り、ひびがはいっていた。全く予想外だった。東海岸の都市、元山(ウォンサン)で、向こうから歩いてくる30人ほどの男たちの一団が日本語でしゃべっていた。帰国者だと直感した。近づいた途端、案内人が、「小島さん、しゃべらないでください」と止めた。しかし持ち前の気性で構わず小島さんは、「あんたたち、帰国者か」と声をかけた。

「そうだ」と返事が返ってきた。案内人がまた、「しゃべらないでください」と叫んだ。すると、男たちは沈黙し、もう口を開こうとしなかった。3週間の旅だったが、5日目には嫌になっていた。

 北朝鮮社会のすばらしさを謳(うた)い、多くの在日朝鮮人に「日本人が書いた本だから」と地上の楽園を信じさせた『38度線の北』の著者、歴史学者の寺尾五郎氏(99年没)に帰国後会うや、「聞くと見るとは大違いでした」と率直に吐露した。「そうなんだよ」と、平然とうなずく寺尾氏に、この人は自分をごまかしていると直感した、と小島さんは言う。

 しかし、小島さんも同じだった。朝鮮総連の幹部から、「私がまだ見ていない祖国はどうでした」と尋ねられ、「お国はすばらしかった」と答えた。本当かなという表情を浮かべる幹部もいた。すでに帰国者は激減し、月に1度、船が出航するかどうかになっていた。

 小島さんは新潟県内80カ所で、訪朝報告会を開いた。ここでも平然と、「帰国者はなんの心配もなく幸福に暮らしている」としゃべったという。「まだ、社会主義への幻想があったから」と釈明するが、それだけではなかったろう。帰国事業は「仕事」だった。やめたら飯の食い上げだ。訪朝後、帰国しようか迷っている人に、「何も心配ない」と背中を押すこともあった。

「希望を持って帰る人たちに、帰るなとは言えなかった。頑張ってください、と言うしかなかった」と語った。

週刊朝日 2013年11月15日号