翌日、観客のひとりに勧められた印刷博物館を訪れてみた。重厚な扉を開くと、板橋の印刷所と同じインクの匂いがした。カメラで装幀の世界をのぞき、黒い服の菊地さんの背中に導かれてスクリーンをくぐり抜け、気づけばドイツの印刷所までやってきてしまったかのような、妙な感慨に襲われる。
■より市場のことを考えながら
帰国すると、一枚の葉書が届いていた。
「十月末をもって、銀座の事務所を仕舞います。以後、ご用の向きは下記へお願いします。お話は、『樹の花』にて。菊地信義」
感傷的になっているのは私だけだった。菊地さんは驚くほどさっぱりしている。むしろ、やる気に満ち満ちている。今後は作品数を絞り、より市場のことを考えながら作品に注力するつもりだと意気込む。
手作業の時代の終わりが近づいている。菊地さんはそれすらもポジティブに受け止めている。「樹の花」や神保さんとの関係が変わっても、本はなくならない。呆れるほど、そう信じている。菊地さんが手がけた作品を見ると、静かに主張もせず文章を盛ることに徹しながらも、その反面、装幀を知ってほしい、語ってほしいと力強く語りかけられているように感じるときがある。
本作『つつんで、ひらいて』の日本公開は、今年12月14日。ふと、あの整理された作業机のことを思い浮かべる。これから鎌倉で、菊地さんはどんなルーティンの日々を送るのだろう。私が銀座に通うことはもうないだろう。その代り、本と会いに書店に通おうと決めた。(文/映画監督・広瀬奈々子)
※「一冊の本」12月号より