ここのところ、なぜか光文社の古典新訳文庫を続けて読んでいました。
ブッツァーティの『神を見た犬』、ロダーリの『猫とともに去りぬ』、チェスタトンの『木曜日だった男』、ホイットマンの『おれにはアメリカの歌声が聴こえる』、クラークの『幼年期の終わり』。
ブッツァーティやロダーリなど、ちょっと奇妙な味の短編が読みたかったのがきっかけですが、そこから続け様に古典新訳文庫ばかり選んで買っていました。
何と言えばいいのでしょうか。本の体裁がその時の気分にフィットしたというか、ラインナップばかりか、装幀から文字組まで含めて、今の自分には非常に読みやすいんじゃないかと感じたのです。
そういう時は自分の感覚を信じた方がいい。
最近は翻訳物は以前ほど読んでいなかったのですが、これらは自分でも不思議なくらいスイスイと読めました。
『幼年期の終わり』は、多分大学時代に読んだと思います。でも、さっぱり覚えていない。というか、自分が想像していた人類の進化をテーマとした物語と偉く違いがあって、そこに戸惑っていたような記憶があります。
むしろこの歳になって読み直すと、人類よりも遙かに進化している異星人オーヴァーロードに種としての進化の限界があり、ラスト、彼らが新しい生命の進化を目の当たりにして感じる取り残され感が妙に胸に沁みたりして、新鮮な発見がありました。
年齢とともに、物語の読み方は変わりますね。
『木曜日だった男』もチェスタトンらしい妙な小説だった。いかにもイギリスらしいなあと。僕は『プリズナーNo.6』の原型のように感じました。と言っても、『プリズナーNo.6』自体、相当古いテレビドラマですからピンとくる人も少ないかもしれませんが。
光文社古典新訳文庫は、まず活字が大きい事がありがたい。
『木曜日だった男』は創元推理文庫から『木曜の男』という題名で昔から出されているのですが、こちらはグッと活字が小さいのです。
老眼が進んでいて、字が小さい本は本当に辛い。真面目な話、虫眼鏡が欲しくなる。石坂浩二が宣伝しているハズキルーペの購入を真面目に考えているくらいです。
今は結構どこの文庫も新刊は文字組を大きくしています。だけど、創元は頑固なくらい今でも昔ながらの小さい文字組ですね。それで、ちょっと読もうとする気持ちを削がれる時がある。
それでも、最近でもフレドリック・ブラウンの作品を復刻したり、都筑道夫のSF作品を集めた『宇宙大密室』を新編集したりと、「おお」という本を定期的に出すので買わざるを得ないのですが。
昭和40年代の文庫を見ると、その文字の小ささに驚かされます。
みんなこんなに小さな文字を読んでいたのか。その当時だって老眼の人はいたろうに、みんな平気だったのかなと思います。
そう言えば、まだ双葉社にいた頃、『居眠り磐音』シリーズの担当者が、「読者は年配の方が多いから、意識的に活字を通常の物よりも一回り大きくした」と言っていました。
このシリーズが大ヒットしていたのは、もちろん面白いからでしょうが、読みやすさというのも効果があったのではないでしょうか。
僕も、同じ作品で文字の大きさが違っていれば、迷わず大きい方を選んでしまいます。
まあ、そうは言っても、自分も編集者時代、40になる頃までは相当小さな文字の本を作っていました。特撮やアニメの研究本だったので、「情報量は多ければ多い方がオタクは喜ぶ。文字を小さくしてもテキスト量を増やそう」という方針だったのです。
それを裸眼で平気で校正していたのですから、この10年ほどで本当に老眼が進んだのですね。
『仮面ライダー』や『ウルトラマン』『宇宙戦艦ヤマト』などの古い作品は、ファンも高齢化しているので、研究本は改めて大きな活字で出し直したら喜ばれるかもしれません。
〈先週に読まれた記事ピックアップ〉「おむすび」父親役が好評の「北村有起哉」 プライベートでも子煩悩な“パパ素顔”