時が止まったようだった。大きな放物線を描いた打球を見つめる観客たちが一瞬静まり返った。白球がレフトスタンド中段に飛び込むと、大歓声で球場が揺れた。
「逆転、、、したんだよな?」
甲子園決勝戦での逆転満塁本塁打。あまりに劇的な結末に、打った三番打者の副島浩史(30)は、状況を理解するまでに時間がかかった。
2007年の夏の甲子園、八回裏、佐賀北の攻撃が始まったときは0対4の差があった。
「公立校として、ここまで勝ち進んでこられた。よく頑張ったじゃないか」
そんな球場全体の雰囲気も感じた。7回までのヒットはわずか1本。相手は野村祐輔投手(現広島東洋カープ)を擁する広島代表の広陵。試合前の下馬評では圧倒的に不利だった。誰の目から見ても、広陵の優勝は揺るぎないもののように思えた。
そんな雰囲気のなか、1死から八番の久保貴大がヒットで出塁。球場の空気が一変した。当時、佐賀北の三塁コーチャーとしてグラウンドにいた野中将司(30)が証言する。
「ヒット1本でこれまでに経験したことのないような歓声が上がりました。一塁側アルプス以外の観客全員が、自分たちを応援しているようでした。球場全体が佐賀北の応援にあわせて、手拍子をしていました」
ベンチにいた副島も、「すごい手拍子だね」と隣にいた選手に声をかけたが、あまりの声援に、耳打ちをしないと会話ができなかったという。
球数が100球を超えた野村に、疲労が見え始めていた。持ち味の制球が乱れ、得意のスライダーが決まらない。続く代打の新川勝政も右前安打で続き、一番辻尭人が四球を選んだ。3者連続の出塁で1死満塁になった。相手は制球が乱れている。ヒットよりも四球を狙う方が確率は高い。ネクストバッターサークルにいた副島は、心の中でつぶやいた。
「井出、振るなよ。オレに回してくれ」
二番の井出和馬は小柄で、選球眼もよく、四球で出塁することが多かった。
この打席、井出は一度もバットを振らなかった。ボール球一つでどよめく甲子園。カウント3ボール1ストライクで、野村が投じた外角低めいっぱいの直球に、球審の手は上がらなかった。押し出しの四球で1点を返す。1対4。悔しさから、広陵捕手の小林誠司(現読売ジャイアンツ)はミットを地面に叩きつけた。副島に打席が周る。