10代から20代にかけて、SFにはまっていた時期があります。
 SFマガジンを最初に買ったのが、確か中学1年生の冬。新春の日本人作家特大号でした。
 確か、この号に筒井康隆氏の『デマ』が掲載されていたと思います。
 この作品には大いに衝撃を受けました。
 あるデマが拡大していく過程を、小説ではなく、フローチャートの形で表現する。どんどん分岐して、あるものは消え、あるものは尾ひれがついて変質する。今だと当たり前の方法論かもしれませんが、こんなやり方の小説があるのかとびっくりした。
 
 筒井さんの小説は、それまでにも何冊かは読んでいたはずです。
 夢中になって見ていたNHK少年ドラマシリーズの『タイム・トラベラー』、その原作である『時をかける少女』は、もちろん読んでいました。その他にも確か『にぎやかな未来』というショートショート集を読んでいたと思います。
 ただ、まだ筒井さんの本領発揮と言える作品には出会っていなかった。
 最初が『デマ』だったわけです。
 これでびっくりしていたところに早川書房がハヤカワJA文庫を創刊して、日本人SF作家の作品が文庫化されるようになった。『東海道戦争』や『ベトナム観光公社』など、氏の初期作品集を読んで、「世の中にこんなに面白い小説があったのか」と驚いた。そこからは、もう大ハマり。
 まあ、同世代だと、当時、似たような体験をした人は多いと思うので、あまり偉そうに書くことでもないのですが。

 その一年後くらいに、SFマガジンから山田正紀氏、かんべむさし氏、堀晃氏などの強力な第二世代日本人SF作家が登場し、ますます日本のSFにのめり込んでいきました。
 伝奇小説という手法も半村良氏の『黄金伝説』、『産霊山秘録』や『妖星伝』で知ったものです。
 
 でもまあ、そのあとに続く新人が書く物が、なんだかジャンル内におさまってよしとする感じがして面白くなかったり、ベテラン作家のものもピリッとくるものが少なくなって、だんだんSF熱が冷めてきました。

 この時も、大きなきっかけになったのが、筒井さんの作風の転換でした。
『虚人たち』から『虚航船団』と、それまでのスラプスティックSFから、ぐっと前衛文学に踏み出した彼の作風の変化に戸惑い、「俺には関係のない作家になってしまった」と、読まなくなった。
 それと同時に、SFからも距離を置き始め、翻訳冒険小説から伝奇時代小説に傾倒していくことになるのです。

 ただ、最近、書店に行っても寂しく思います。
 自分が若い頃、あれだけ夢中で読んでいた日本人SF作家の本が殆どない。小松左京、光瀬龍、豊田有恒、平井和正、半村良、山田正紀、かんべむさし・・・。角川文庫や徳間文庫を中心に、ズラズラと並んでいた彼らの著作も、すっかり減ってしまった。時代の流れと言えば仕方がないが。
 そんな中、筒井さんと星さんの本はまだ見かけます。
 それだけで嬉しくなる。
 この間、書店に行ったときにふらっと『残像に口紅を』を買いました。
『虚航船団』のあとの実験的作品です。
 小説の中から、五十音をランダムに一文字ずつ消していく。「あ」という文字が消えたら「あ」のつく言葉が使えなくなる。たとえば「明日」とは使えないから「翌日」などと言い換えなければならない。
 そういう実験的な手法で、書かれた小説だとは知っていました。
 発売された時から、その手法でどんな小説が書かれているのか興味はないわけではなかったのですが、「まあ前衛文学だしな」と敬遠している自分もいた。物語重視、娯楽作品支持という自分の嗜好に、自分で縛られている部分もあったのかもしれません。
 今、読み進めているのですが、想像していた以上に面白い。
 主人公が小説の中の登場人物であるということ、そして自分がこの小説を書いていることも自覚している。
 例えば、文字が消えると同時に、その文字を含む名前の人間も消える。章が変わると文字が消えるのですが、その時例えば、同時に自分の娘も消えてしまう。主人公はそのことを作者としては自覚しながら、登場人物として喪失感も感じる。その思いはこちらにも伝わってくる。
 想像した以上にアクロバティックな技巧を駆使した作品でした。
 発表されたのが1989年ですので20年ちょっと前。確認するまで、そんなに時間が経っていたとは思わなかった。10年くらい前の作品かなと思っていました。
 20年たって、やっとあの当時の筒井さんに追いついたのかと思うと、情けなくもありますが、今、素直にこういう作品も楽しめる自分がいるのも面白いものだなあと思います。