七兵衛の壮年の功績の筆頭は何といっても航路開発である。分権国家から集権国家に一歩(半歩?)踏み出すためには、その行政機構を支えるにたる首都が必要となる。さらに、寛永10(1635)年に制度化された参勤交代の制度はいやがうえにも江戸への人口の集積を進めることとなった。その食糧需要を満たさないことには、「江戸」を維持することは出来ない。
途中に陸運や湖運を経由する従来の物流システムからより大きな、より重いものを運ぶことを可能にする海運システム(漕政)の一新は江戸が現在の我々が想像する江戸になるために必須の事業であった。
開拓された航路によって運ばれるのは米だけではない。当時の航海技術によっても往来が可能な方法が示されたことは、廻米にとどまらない人とモノ、そして貨幣の移動を生むことになる。水の道、その途上の中継点である湊が結ばれていくことで、日本はひとつのまとまりをもった商いのネットワークとして繋がれたのだ。このように考えると、七兵衛の業績は食糧の輸送によって「江戸の町を造った」にとどまるものではない。国内市場の創造を通じて「江戸時代を造った」とさえいえるだろう。
西回り航路という大事業が達成されたのは寛文12(1672)年。このとき七兵衛は既に50代半ばにさしかかっていたと考えられる。当時であればそろそろ隠居して余生を楽しむ年頃といって良い。しかし、その後の活躍――新田開発や治水工事、さらに鉱山開発は航路開発に勝るとも劣らぬものとなった。
江戸の経済システムという観点からは両者は密接に繋がっている。航路開発前、一番の問題は各地でとれる米をいかにして江戸や大坂に運ぶかというところにあった。しかし、航路が確立し、物流が活発になると次の課題はいかにして江戸に運ぶ米を生み出すかに移っていく。
さらに17世紀を通じて進んだ新田開発は山林を郷に変えていく作業である。木々を失った土地は保水力を失い、中下流域での洪水被害を大きなものとする。加えて、流出した土砂が下流域や河口付近に堆積することで物流の中継点、つまりは経済ネットワークの要である湊の機能を低下させる。航路開発によって回りはじめた江戸経済システムの維持・発展のためには新田開発・治水は必須の事業である。本書でも終盤のテーマとなる大和川・淀川流域(現在の大阪・奈良)における治水・治山事業は江戸期の天下の台所たる大坂を再生した事業といって良い。その意味で七兵衛は「大坂を造った男」でもある。
天下の大業績として称えられる航路開発や畿内の治水にとどまらず、高田藩での鉱山開発にも携わった七兵衛は、国のシステムを作り、当時の中心都市である江戸・大坂を救い、さらには地方経済を救う。七兵衛の八面六臂の活躍にはあらためて驚かされるばかりだ。江戸という時代の経済システムにとって必要なこと、その端緒から中心的な役割を果たし、その完成に向けての事業を推し進めた。商人として利を生む仕組みを造るにとどまらず、天下が利を生む仕組みを造った。歴史は国は勇敢な英雄や大政治家のみによって成り立つものではない。瑞賢の事績を知ることはもうひとつの江戸、そして日本の歴史を知ることである。(文/経済学者・飯田泰之)