中学時代、不登校を経験したタレントの中川翔子さん。彼女が直面した「スクールカースト」の中での孤独や葛藤、そして、そこから立ち上がるまでの道のりはどのようなものだったのでしょうか。自らも不登校を経験した不登校ジャーナリストの石井しこうさんが聞き手となり、その胸の内に迫りました。 ※後編<不登校だった中川翔子がいま、伝えたいことは? 「あのときの自分に『生きていてくれてサンキュー!』と背中をさすってあげたい」>に続く
【写真】中学時代の中川翔子さんはこちら(ほか8枚)スクールカーストの最下層にランク付けされた中学時代
――中川さんは中学時代に不登校になったそうですが、いつごろから学校に行きたくないと思い始めたのですか?
中川 私立の女子中学校に入学してすぐです。昔から漫画やアニメ、ゲームが好きで、小学校のときはそうした「ちょっと変わった自分」を、みんなが普通に受け入れてくれていました。でも中学に進学すると、クラス内にはボスグループを頂点とした序列「スクールカースト」ができあがっていて……。自分の机でひとり絵を描いていた私は「あいつオタクじゃね? キモい」と言われてしまいました。
また、当時プリクラを貼りつけた「プリクラ帳」を見せ合うのがはやっていたのですが、私は持っていなかったんです。そこであわてて一人でプリクラを撮りに行き、家にあったおばあちゃんお手製の和紙で作った小さなノートにそれを貼りつけて学校に持って行ったんです。そうしたら「なにそれ? なんかおかしくない? キモイ」と空気が一変して……。
クラスの子たちが盛り上がっている恋愛の話やアイドルの話にもうまくついていくことができず、アワアワしてしまうことも度々ありました。たちまち輪から外されてしまい、最下層にランク付けされてしまいました。日々、陰口は露骨になってきて、みんなの会話が全部自分の悪口を言っているように感じられて、学校に行くのが怖くなりました。
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――それでも、毎日学校へ行っていたのですか?
中川 はい。行かなくなったら「負け」だと思っていたんですよね。でも、中学3年のある日、制靴のローファーを隠されてしまったことがありました。先生に相談することも「負け」だと思っていたけれど、靴がないと帰れません。しかたなく職員室へ行き、事情を話していたら、これまでの悔しさと悲しさが込み上げてきて、思わず泣いてしまったんです。先生は靴がなくなるまでのいきさつを聞いてくれて、新品のローファーを渡してくれました。「私の気持ちに寄り添ってもらえた」と思って、うれしかったですね。
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