歴史は歴史でも私が好きなのは当時から古典文学や服飾だったのでまったく刺さらず。

 でもつまらなそうな顔を見せると途端に父が機嫌を損ねて空気が悪くなることも分かっているので、無理して興味をそそられているふりをするのがどんなに苦痛だったか。

 そこへ、さらに数年前の記憶が追い打ちをかけてきます。

 当時昆虫が好きだった長男のために、かの有名な養老孟司先生と一緒に昆虫採集をしてお話を聴けるという貴重なイベントに申し込んだんですよ。しかし、大勢の子どもたちが元気に手を挙げ質問したり意見を言ったりして大いに盛り上がっている中、長男はほぼ「無」。終わってから感想を尋ねても、

「うーん……あんまりよくわかんなかった……」

 とポツリ。えー!! いやいや、あんなに著名な先生と直接昆虫のお話できるチャンスだったのに! 家であんなに昆虫話してるじゃーん! と長男の反応に納得いかなかったのは母である……そう、私。

 いや自分!! 父親とおんなじことしとるやないかーい!! 昔から著書を読んでお顔も知っている大人の私にとってはすごい人。でも子どもにとってはどこかの知らないおじいさんなんですよね(先生ゴメンナサイ)。昆虫好きと言っても長男が好きなのは一人でじっくり観察したり情報収集することで、たくさんの知らない子どもたちとワイワイ虫捕りするのが好きなわけではなかった、と。

 オタク同士、分かっていたつもりだったのに! 撮り鉄を無理やり乗車させるようなことしてたわけですよ(伝われ)。

 わが子によりよい体験や感動を与えてあげたい。それが学びや新たな興味のきっかけになれたら、と思うのはどの親も同じでしょう。でもふと冷静になって一歩引いて見てみるとただ大人の自己満足に陥っていた、というのはよくある話。あるいはよかれと思ってやっていたことが自分が子どもの頃にやられて嫌なことだった、とかね。

 こういう過ちは今に始まったことではなく私は過去にもいろいろやらかしているんですが、また一つ膿なのか呪いなのか……を出せた気がします。川遊びの体験や発見は別にその場で理科の知識にいかせなくとも、探究の素材にならなくとも「ただ楽しかった、ポジティブな子ども時代の思い出」として残ればもう満点で。

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