撮影/写真映像部・高野楓菜
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 日本の現代美術で重要な「もの派」を代表する美術家・李禹煥(リ・ウファン)が、国立新美術館で大規模な回顧展を開催中だ。李を敬愛するクリエイティブディレクターの佐藤可士和とアートについて語り合った。AERA 2022年10月3日号から。

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佐藤可士和(以下、佐藤):僕が多摩美(多摩美術大学)の学生だった時、李先生は教授として大学にいらした。直接の交流はありませんでしたが、その頃から先生の作品が好きで、今回まとめて見ることができたのは素晴らしい経験でした。この倍のスペースがあってもよかったんじゃないですか?

李禹煥(以下、李):僕の場合、スペースはいくらあっても足りないです。彫刻はもちろん、絵画でもどういう空間にあるかが大切で、個々の作品の対象性ではなく、作品が置かれる「場」を見てもらわなくてはいけない。一つ一つの作品が大きく場所を取るので、今回は作品の数を減らして、ゆったりとした展示を優先しました。

佐藤:僕が学生だった1980年代ごろから、アートの展示方法としてインスタレーションが盛り上がってきたこともあり、空間を大切にする感覚は僕も強いんです。先生の空間へのこだわりはいつ生まれたのですか?

■あらゆる概念は怪しい

李:割と早い段階ですね。外にあるものではなく、頭の中でこしらえたものを見せるという近代美術の考え方に疑問がありました。たとえば、ピンクの蛍光塗料を使った絵画は、60年代後半に流行(はや)った、目がちかちかするハレーションを起こす「オプ・アート」の流れで描いたのですが、それは近代美術の考え方を拒否するという態度の中で出てきました。引き延ばしたゴム製のメジャーの上に石を置き、距離の感覚をおかしくしようとした作品も作りましたが、それは(近代に生まれた)物差しなんて信用できないぞということを示したかったんです。あらゆる概念は怪しいと疑うことを掘り下げていくと、空間や場的なものへ関心が広がっていきました。対象物を見せるという世界を超えていきたかったんですね。

佐藤:ものとの関係でいえば、マルセル・デュシャンの(ありふれた既製品を作品として提示する)レディメイドやアンディ・ウォーホルはどう評価しますか?

李:デュシャンは、便器に泉と名付けて展覧会に出しました。展覧会制度という中で可能になったと言われますが、制度を離れればただの便器。手仕事を否定し、制度を茶化すような形で工業生産品を展示したのは、時代を体現するようなところはあったけれど、作品の斬新さとは違う。彼はあまりに制度に乗っかりすぎていると思います。

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