和歌山市内の鉄道の要衝である東和歌山停留所で乗客を待つ海南駅前行き。詰襟制服姿の乗務員が車外で小休止していた。(撮影/諸河久:1965年3月22日)
和歌山市内の鉄道の要衝である東和歌山停留所で乗客を待つ海南駅前行き。詰襟制服姿の乗務員が車外で小休止していた。(撮影/諸河久:1965年3月22日)

 1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。前回に続いて今回は、南海電気鉄道和歌山軌道線や和歌山市近郊の鉄道訪問記を綴る。

【春の和歌山57年前の貴重な写真、続きはコチラ!(計7枚)】

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 和歌山軌道線の高松検車区で謎のヘルマン製台車と対峙してから東和歌山に移動。ここから接続する南海電気鉄道貴志川線と国鉄(現JR)紀勢本線海南駅に隣接した日方駅を発着する野上電鉄、それに海南市内を走る和歌山軌道線を一日で巡ったエピソードを紹介しよう。

主要ターミナル「東和歌山」の点描

 冒頭の写真は、和歌山市内の主要ターミナルの一つである国鉄東和歌山駅前(1968年に和歌山駅に改称)の東和歌山停留所で発車を待つ海南駅前行きの路面電車。この1002号は1954年に戦後初の新車としてデビュー。全長11m、定員66名(座席定員28名)、扉配置が左右非対称の低床式ボギー車で、東洋工機で製造された。和歌山電気軌道の発注で「軌」を逆三角形にデザインした社紋を車体側面の扇形の窪みに取り付ける凝った意匠だった。南海電鉄の経営に変わって旧社紋は撤去され、同じ場所に南海の「羽車」の社紋が取り付けられた。

 画面右手には国鉄東和歌山駅本屋があり、ここからは国鉄紀勢本線、和歌山線、阪和線がそれぞれ発着していた。訪問先の南海電気鉄道貴志川線(以下貴志川線)東和歌山駅は国鉄東和歌山駅の東端に位置し、駅本屋の北側にある連絡地下道が貴志川線の改札口に続いている。

貴志川線の東和歌山駅ホームは画面右奥に連絡通路と改札口があり、味わいのある車体のモハ600型が待機していた。(撮影/諸河久:1965年3月22日)
貴志川線の東和歌山駅ホームは画面右奥に連絡通路と改札口があり、味わいのある車体のモハ600型が待機していた。(撮影/諸河久:1965年3月22日)

 貴志川線東和歌山駅のホームでは写真のように貴志行きのモハ600型が出発を待っていた。このモハ601は旧阪急51系の車体を鋼体化した再生車両。窓枠の上辺が円形になった優雅なデザインで、1955年の登場時はトロリーポールによる集電だった。

 貴志川線は軌間1067mm、電車線電圧600Vで、東和歌山(和歌山)~貴志14300mを単線で結んでいる。前身は山東軽便鉄道で1916年に開業後→和歌山鉄道→和歌山電気軌道→南海電気鉄道と変遷し、2006年からは和歌山電鐵が運営にあたっている。「日本の私鉄初の駅長「たま」が勤務する鉄道」として話題になったのは記憶に新しい。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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