また、過去の五輪でも繰り返されてきたように、この東京でも五輪を口実に、住居の立ち退きを強いられた人々がいる。国立競技場の隣にあった都営霞ケ丘アパートは取り壊しの憂き目にあい、高齢の住民たちはばらばらのアパートに転居させられた。開会式直前に話を聞いた元住民の男性は「弱い人間だから、(仕方ないと)自分に言い聞かせている」と言っていた。自分は国家イベントの前では何も聞き入れられない、負けた存在だと言わせる暴力性。このように五輪が人間の尊厳を踏みにじっている。近くの明治公園で行われたホームレス排除もまったく同じ構造である。

 国立競技場のある神宮外苑地区は、かつて建物の高さ制限が厳しく課され、市民のための空と緑を多く残した空間だった。しかし、五輪を契機に激変していく。競技場建て替えを口実に、高さ制限は80メートルにまで緩和され、巨大なタワーマンションの建築を許した。別の広場をつぶした跡地には日本オリンピック委員会(JOC)と日本スポーツ協会の新築ビルがそびえたっている。今後も、大きなビルの建設ラッシュが続く予定だ。

 高層ビルに邪魔されない景観や自由にくつろぐことのできる公園は人々のための公共財、<コモン>である。「住む」という権利を多くの人に保障する公営住宅も<コモン>にほかならない。五輪を口実に、弱者を痛めつけ、公園や公営住宅、景観などの公共財<コモン>を破壊しながら、一部の企業や政治家の利権のために都市開発を推し進める。五輪のための開発ではなく、開発のための五輪。その暴力性を隠そうとするのが、祝賀資本主義の本質である。

 こうした五輪の暴力性は、スポーツがビジネス化し、資本主義の道具になるなかで、勝利至上主義が蔓延(まんえん)していることともつながっている。たとえば、コロナに感染したサッカー南アフリカ代表について、自分たちには「得でしかない」と日本人選手が発言した事件は、勝利至上主義の典型だ。こうした発想はスポーツのフェアの精神とは相容(い)れないが、勝てば何をしてもいいという資本主義の競争型社会と相性がいい。

 勝ちだけが優先されていけば、弱い立場の人々は必然的に「劣った」存在として扱われるようになっていく。その意味で、森喜朗氏の女性蔑視発言や小山田圭吾氏のいじめ加害も、五輪にはびこる能力至上主義と強い親和性がある。五輪に感動して、その勝利至上主義を肯定的なものとして社会が受けいれてしまえば、私たちはこれからも同じような差別を繰り返してしまうに違いない。

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「スポーツウォッシュ」に成り下がる五輪