父、篤夫(73)は牧師であり岐阜県高山市議会副議長を務める政治家。兄、博昭(47)はフジテレビのディレクターで、人気作の「信長協奏曲」や「ライアーゲーム」は映画化され監督も務めた。そして、現代美術で世界を駆けあがる松山。しかし、この松山家の中盤で一貫してゲームメークをしてきたダイナモは、間違いなく母の幸子(74)だ。東京都品川区出身で4人の兄全員が東京大学を卒業した教育一家に育ち、自らは演劇を志して日本大学芸術学部に進んだが、2年で中退。当時、トヨタ自動車の米国法人に勤務していた3番目の兄を頼ってカリフォルニアに渡り、ハンガリー移民だった兄嫁に教会に連れて行かれるうちに熱心なクリスチャンとなって帰国した。

 父親が創業したタクシー会社の跡取り息子だった篤夫は上京して慶應義塾大学に進み、卒業後に自動車販売会社に就職、そのころに知り合った幸子と恋に落ちた。幸子が結婚相手に求める絶対条件に従って、篤夫は日本基督教団で洗礼を受けた。自然豊かで歴史的街並みが美しい観光地の飛騨高山は、日本の原風景と文化が凝縮したような土地柄だ。しかし、ある意味封建的で古風なこの地に嫁いでも、進取の気風に富んだ幸子は伸び伸びと自分を通し、子どもたちを型に嵌めることもしなかった。

「幼稚園の参観日でうちの子たちだけ自分の名前が書けなくて固まっていたし、小学校1年生の時は最初にもらってきた通知表を見て腰を抜かしそうになりました」

 当時を思い出し、幸子は快活に笑う。この母に牽引され、松山が小学校3年生に上がる前に一家はカリフォルニアに移住する。主目的は、篤夫がキリスト教を学ぶこと。牧師のチャック・スミスが西海岸の自由な風土の中で創設したカルバリー教会のバイブルスクールから、大学院で聖書学の修士号を取得するまで、留学生活は3年3カ月に及んだ。この間、激変した環境に松山は順応し、3歳上の兄は苦しんだ。2人とも地元の小学校で学び、土曜日は日本語教育を施す補習校に通った。

「智一は学校だけでなく、アパートの同年代の子どもたちともあっという間に仲良くなって、いつの間にか寝言も英語になっていた。一方の博昭は家で映画のビデオばかり見て、補習校に行く土曜日だけが楽しみのようでした」

 篤夫が感じていたように、この年代での3歳という年齢差は、想像以上に大きかった。社交的な松山はLAキッズに溶け込み、同地で発祥したスケートボードにのめり込んだ。この頃の松山の写真はどれも顔が日焼けで真っ黒だ。

「まだベトナム戦争の名残があって、『お前、ボートピープルか』ってよく聞かれましたね。当時は整備されたスケボーパークなんてなくて、破れたフェンスの先の路上とか大型の下水溝に入り込んでは滑っていました」

 映画「ターミネーター2」を彷彿とさせる冒険の連続のような日々は、松山にとって甘いだけの思い出ではない。白人、黒人、ヒスパニック、アジア系。既に人種の坩堝だったLAは雑多な現実が交錯していて、極東の地方都市からきた少年に他所行きの顔を見せるような余裕もなかった。ウイスキーの小瓶をポケットに忍ばせた高校生が白昼の路上を千鳥足でさまよい、小学生同士がナイフを片手に小銭を巻き上げ、アジア系移民の子が親にしたたか殴られていた。松山自身も腕時計を脅し取られたことがある。目にする現実にからめとられまいと、みんなが心に大音量のハードロックを響かせながら、カラーギャングが屯する街をスケボーで擦り抜けた。子どもながらに協力して自立する、根無し草同士のヒロイズムがあった。
(文・大平誠)                                                  

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