日本に補償を求め、アムステルダム中央駅前でオランダ人の日本軍抑留被害者らが「父母を返せ」などとデモ行進した/2000年5月23日 (c)朝日新聞社
日本に補償を求め、アムステルダム中央駅前でオランダ人の日本軍抑留被害者らが「父母を返せ」などとデモ行進した/2000年5月23日 (c)朝日新聞社

 天皇陛下が訪問してきた国のなかには、日本による戦争の被害を受けた国もあった。被害者の訴えや反日感情などの難題を受け止め、訪問実現に向けて貢献した人がいた。朝日新聞編集委員の北野隆一氏がレポートする。

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 2000年のオランダ訪問に際しても、歴代大使らによる和解への取り組みがあった。第2次世界大戦中に日本軍がオランダ領東インド(現インドネシア)でオランダ人を抑留した歴史をめぐって、元捕虜や抑留被害者らが日本に過去の事実を認め補償するよう求めていた。71年に昭和天皇が訪れた際には、車列に魔法瓶を投げつけられた。

 佐藤行雄さん(79)が大使として赴任したのは94年6月。将来、両陛下のオランダ訪問を実現するためにも「オランダの世論の一部にある反日感情をこのままにしておけない」と考え、対話を進めようと決めていた。

 赴任2カ月後の94年8月、佐藤さんは妻とともにハーグの戦没者記念碑に献花した。91年には海部俊樹首相が同じ碑に花を供え、池に投げ捨てられたことがあったばかり。関係者を刺激しないよう終戦の日から1日ずらし、16日に訪れた。オランダ人秘書に「献花に行くので車を出してほしい」と伝えると、その秘書から「実は私も子どものときインドネシアで抑留生活を経験しました」と初めて打ち明けられた。

 日本政府に補償を求めている抑留被害者や元捕虜らの団体「対日道義的債務基金」(JES)のシュールド・ラプレ会長らを大使館に初めて招いて話を聞いたのは94年11月。団体側から「デモをしたい」と打診され、「公道なので、どうぞ」と承諾。月1回の日本大使館前でのデモと、その後の大使らとの対話が定例化するようになった。

 96年、次の大使に着任した池田維さん(79)も定期的に対話を続けた。大使館前でのデモが平穏に行われたときは、館内に代表を招き入れてお茶を出し、話を聞いた。両陛下訪問の直前には一部の被害者から「もしデモをしたとしても、そんなむちゃをすることはない」とも聞いた。ただ実際、訪問時にどれほどのデモが行われるかの確証はつかめなかった。

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