一般に、江戸時代の禁教下でひそかに信仰を続けた人々を「潜伏キリシタン」、明治時代になって禁教が解かれた後もカトリックに合流せず信仰を続けた人々を「かくれキリシタン」と、便宜的に呼び分けている。かくれキリシタン信仰は長崎市の外海(そとめ)地区や五島列島の一部などにも残るが、組織的な信仰が残るのは生月島だけだ。

 25年近くかくれキリシタン信仰の調査・研究に取り組み、今年3月に『かくれキリシタンの起源』(弦書房)を出した、生月島にある博物館「島の館(やかた)」の学芸員・中園成生(しげお)さん(55)によると、かくれキリシタンの系統には「生月・平戸系」と「外海・浦上系」の2系列がある。生月島のかくれキリシタンの特徴は、一言でいえば「オープン」なこと。声に出してオラショを唱え、戸外での行事もある。一方、外海・浦上系では戸外の行事はなく、オラショはほとんど発音せずに胸の内で念じるだけだ。その違いを中園さんはこう推測する。

「生月島は徳川幕府の禁教令より早い時期に禁教になり、『潜伏』が早く始まった。そのためより古い時期のキリシタン信仰の形態が、そのまま残ったのではないか」

 南北14キロ、東西3キロ。今では平戸と橋でつながる生月島にキリスト教が伝わったのは、戦国時代の16世紀半ばだ。1549(天文18)年、鹿児島に上陸した宣教師のフランシスコ・ザビエルは翌年には平戸で布教を開始、平戸は日本での一大布教拠点となった。58(永禄元)年には、キリシタン領主が生月島民の一斉改宗を行い、1300人が一挙に入信したという。

 しかし99(慶長4)年、平戸を治めた松浦氏に仏式葬儀への参列を命じられたキリシタンの籠手田(こてだ)氏らが拒否し信徒を連れて平戸から去る。これを境に島は禁教と弾圧の時代に入った。そして徳川幕府の禁教令により、表向きキリシタンを名乗ることは死を意味することとなった。

 だが、「海が血で赤く染まった」といわれるまで厳しい弾圧を受けても、密かに信仰は受け継がれた。1873年に禁教令が解かれ、隠れる必要がない時代になっても、多くはカトリックに帰依しないまま組織的な信仰は現代まで残る。(編集部・野村昌二)

AERA 2018年10月1日号より抜粋

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野村昌二

ニュース週刊誌『AERA』記者。格差、貧困、マイノリティの問題を中心に、ときどきサブカルなども書いています。著書に『ぼくたちクルド人』。大切にしたのは、人が幸せに生きる権利。

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