そこで同じような境遇の二ツ目が5、6人集まって、寄席に出られるように要求しようと話がまとまった。受け入れられなかったら、協会を飛び出す覚悟だった。

「わーって盛り上がってパッと振り返ったら、誰もいない。言い出しっぺの人すら、寝返っちゃったんです。結局、わたしひとりが悪者になりました」(『座布団一枚! 桂歌丸のわが落語人生』から)。

 この一件は師匠の逆鱗に触れ、名前こそ取り上げられなかったが、落語芸術協会から除名される。しかたなく化粧品のセールスや内職をすることになった。

 2年後、やはり落語がやりたいと、師匠・今輔に詫びを入れ、兄弟子だった桂米丸に預けられる形で、1961年「米坊(よねぼう)」の名前をもらい出発。二ツ目のまま「歌丸」となった。

 若い時代に思い切り高座にあがりたいという気持ち。自身が回り道をした経験のためか、若い落語家たちへの思いが強かった。

 歌丸さんは「自分を利用しろ」「自分の名前を使っていい」と事あるごとに言い、冒頭の成金の会のように、若手の勉強会に花を添えることを厭わなかった。

「笑点」で三遊亭小圓遊との掛け合いがウケてお茶の間の人気ものになっても、落語家としての矜持を保ち続けた。

「大喜利の歌丸で終わりたくない。落語に帰る」と奮起し、地元・横浜の三吉演芸場で独演会を持ったのをきっかけに、古典落語への挑戦が始まる。

「新作をやる人が多い落語芸術協会の中で『人と違うことをやりたい』という思いもあり、古典に入った」のだという。「手前みそですが、一歩下がる方です。だから古典でもサゲを変えたり、組み立て直したり、埋もれた噺(はなし)を掘り起こしたりしたんです」(朝日新聞「人生の贈り物」2017年12月20日)

 近代落語の祖と言われる、三遊亭圓朝の「怪談牡丹燈籠」「真景累ケ淵(しんけいかさねがふち)」「怪談乳房榎(かいだんちぶさえのき)」など、長い噺にも意欲的に取り組み、話題を呼んできた。

 落語人気のなかでも、歌丸さんの会は特にチケットがとれなくて有名だった。

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