東北大学卒業後は24歳で司法試験に合格し、弁護士に。政界デビューは29歳のとき。日本新党の候補者公募に立候補し、地元ではなく、埼玉県大宮市(当時)を中心とする旧埼玉5区で初当選を果たした。都市部を選んだ理由を「地縁血縁などに頼らず、政策を主張して、それを支持してくれる人たちに投票してもらい、当選したいと考えた」(枝野氏の著書『それでも政治は変えられる』から)。
初めての選挙戦を手伝った枝野氏の小、中学校の後輩の鵜山雄一氏はこう振り返った。
「お金もなく、すべてボランティアスタッフでの選挙戦だった。弁護士らしく公職選挙法を厳密に守り、当選直後に業界団体などが続々とお酒などを差し入れにきたが、それもすべて断っていました」
前出の福地氏が政治家になった枝野氏に連絡をとったのは95年の1月。福地氏は血液製剤が原因でHIVに感染した血友病患者らが国と製薬会社を訴えた「薬害エイズ裁判」の原告側弁護団の一人だった。
「あらゆるパイプを使って国会議員に接触したが、動いてくれたのは彼だけだった」
国はあるはずの行政側の過ちを裏付ける資料の提出を滞らせ、10カ月後に和解勧告が出るも厚生省(当時)の無責任な姿勢は変わらない。枝野氏は国会で森井忠良厚生相に「和解勧告を尊重するか否か」とただし、「謙虚に検討したい」と述べた厚生相の官僚答弁に強く反発した。
「役人のつくった答弁を棒読みするのだったら、政治家が大臣をする必要はない」
■民進参院議員が反論
当時、さきがけの与党議員だった枝野氏が大臣を追及する前代未聞の事態は、与党内に波紋を広げた。さきがけ、民主党時代を枝野氏と共にした元衆院議員で、昭和音楽大学学長の簗瀬進氏はこう振り返る。
「検察ばりに尋問のように追及する姿から、『枝野検事』などと呼ばれていた。信念を曲げない激しさを持っている」
枝野氏の動きをキッカケに橋本龍太郎内閣で菅直人氏が厚生相に就任。被害者への謝罪に至ったことは周知の通りだ。福地氏は枝野氏にエールを送る。
「街頭演説では、民主主義イコール多数決ではない、少数意見を採り入れ、議論して前に進める政治が必要と訴えている。彼の信念は変わっていない。ただ、問われるのはこれから。党の代表として演説で話したことを実際に実現してほしい」
(AERA編集部・澤田晃宏)
※AERA 2017年10月30日号