安の引退に際し、国内のみならず北朝鮮からはローザンヌでプレーするパク・クァンリョン、U-19代表コーチのキム・ヨンジュン、韓国からも多くのKリーガーたちからメッセージが届いた(撮影/加藤夏子)
安の引退に際し、国内のみならず北朝鮮からはローザンヌでプレーするパク・クァンリョン、U-19代表コーチのキム・ヨンジュン、韓国からも多くのKリーガーたちからメッセージが届いた(撮影/加藤夏子)

 日本サッカーの草創期から在日コリアンの存在感は大きかったが、近年特に日朝韓のサポーターから愛された、ひとりの在日フットボーラーがこの夏、現役を終えた。

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 それはまるで彼の生き様がすべて詰まったようなイベントだった。8月5日、在日コリアンJリーガー・安英学(アンヨンハ)の引退試合が東京都北区十条の東京朝鮮中高級学校で行われた。

 ここは安の母校で、言うまでもなく民族学校である。しかし、スタンドにいた約500人の観衆は在日同胞だけではない。横浜FCや、上越新幹線に乗って大挙して駆けつけてきたアルビレックス新潟の日本人サポーターたちがいた。引退試合のスローガンは「心はひとつ」。この理由を安はこう語った。

「国籍や民族や性や年齢を超えたいろんな方が僕を応援してくれたからここまでできたんです。その人たちと心をひとつにできたことへの感謝です」

●在日で北朝鮮代表に

 2002年に新潟でプロとしてのキャリアを歩み始め、16年に横浜FCを退団するまで。長きにわたったサッカー半生において安は在日選手のパイオニアとして、異なる属性のコミュニティーを往還してきた。民族学校を卒業後、夢であったプロを目指して浪人、立正大学サッカー部を経てJリーグに入団、02年には北朝鮮代表に招集された。小泉訪朝で北朝鮮政府による拉致被害が表面化した年である。拉致とは関係のない在日コリアンに対するヘイトが吹き荒れた時代に新潟に安がいたことで、多くの日本人が偏見を払拭することができたとアルビレックスのサポーター・後藤寛昭さんは語った。

「僕らがヨンハを知っているからです。そしてヨンハを入り口にいろんな在日の方と知り合った。僕なんて元々サッカー自体に興味もなかった。でも彼のプレーを見て変わったんです。新人時代にヨンハの後援会を在日の方が立ち上げられたのですが、募集をしたら日本人の入会者が圧倒的に多かったんです」

 泥臭くタックルに行って倒れてもすぐに立ち上がり、献身的に走り出す。新潟のために戦うそのプレースタイルが、多くの人の胸を打った。安は06年には韓国Kリーグの釜山アイパークに移籍する。北朝鮮代表でありながら韓国に渡るという行動は、分断国家の北と南を在日という立場からつないだ。しかし同時にそれは北朝鮮代表からの卒業とも映った。在日サッカー界の関係者はこう語った。

「韓国でのプレーは北朝鮮本国からすれば脱北と捉えられてもおかしくない動きですからね」

 事実、過去に同じ経緯を辿った選手には二度と声がかからなかった。ところが安は、類いまれなリーダーシップと誠実な人柄が評価されて南アフリカW杯予選に北朝鮮代表として再び招集されたのである。

●響き渡る「イギョラ」

 引退試合は東京朝高の現役サッカー部の全部員との30分×3本のゲーム。後輩に最後まであきらめることなく走りきることの大切さをピッチ上で伝える安に向かって、新潟サポーターが「イギョラ(勝て)アンヨンハ」のチャントを歌って応援する。試合後は象徴的なセレモニーがあった。新潟の後援会が作製した安の横断幕が東京朝高のサッカー部に贈呈されたのだ。感謝のバトンである。

 安は高校時代、全く無名だった。しかし、その夢を信じて応援してくれた男がいた。5歳年上の先輩・朴得義(パクトゥギ)である。最後に朴が紹介され、背景を知る新潟サポーターは「トゥギコール」で応えた。

「今度は僕が後輩たちの夢を信じて支えていきます」(安)

 橋を架け続けてきた男は引退後も忙しい。秋には平壌と、ソウルに向かう。文在寅政権になって久しぶりに臨時パスポートが出たのだ。どの国でも信頼の厚い安は今後サッカーで日朝韓をつなげていってくれるに違いない。(ジャーナリスト・木村元彦)

AERA 2017年9月4日号