中野翠(なかの・みどり)/1946年埼玉県生まれ。コラムニスト、映画評論家。早稲田大学政治経済学部卒業。出版社勤務を経て文筆業に。コラムを中心に著書多数(撮影/写真部・岸本絢)
中野翠(なかの・みどり)/1946年埼玉県生まれ。コラムニスト、映画評論家。早稲田大学政治経済学部卒業。出版社勤務を経て文筆業に。コラムを中心に著書多数(撮影/写真部・岸本絢)

 あの頃の早稲田、あの頃の自分、「立派な左翼」になりそこねて。『あのころ、早稲田で』の著者である中野翠が、AERAインタビューに答えた。

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<六〇年代というトンネルのまんなかに当たる、変わり目の年に、私は大学生になった><入学してすぐに左翼サークル「社研」(社会科学研究会)に入部した。高三の後半頃から、大学に入ったら「社研」に入ろうと決めていたのだ>

 中野翠さんが早稲田大学に入学したのは1965年、選んだサークルは「左翼の王道」と言われた「社研」。18歳の中野さんは「立派な左翼」になりたかったのだった。

「60年代といっても前半と後半では空気が全然違う。入学当時は牧歌的な雰囲気でね、68年になるとどぎつい色合いになってくる……。振り返ってみると、その4年間は悶々と迷ってばかりだったけど、今の仕事をするためのトレーニングをしていたのかも」

 早稲田大学は昔も今も、小説やエッセイの舞台として格好の大学だ。本書は中野さんが遂に(!)書き下ろした青春グラフィティである。

 中野さんは1年生の時に歴史的な大学闘争に直面する。学費値上げに反対して全学共闘会議が結成され、大衆団交、デモ、無期限バリケードストライキ、機動隊導入と、早稲田の杜は揺れに揺れる。本書には早大闘争の経緯や貴重な写真も収められている。

「アジ演説や極太文字のタテ看、ガリ版刷りのビラとかね、ジグザグデモやフランスデモもやりましたよ。全共闘議長の大口昭彦さんがカリスマ的人気。ただバリケードに雑魚寝っていうのは生理的にダメだった。男の子って荒ぶる魂というか、ああいうのが好きなんだなあって。それから、何でもけなすときは『それって民青センス!』なんて」

 当時の早稲田は梁山泊のようにキャラの立った人物が続々と登場する(後々の有名人も多々)。鮮明な記憶とシンプルなイラストで描写される学生群像が魅力的だ。この4年間はまた、映画、芝居、文学、マンガなど、新しい表現に出合えた幸福な時代だ。特に68年に体験した「二つの、大きなカルチャーショック」というのが、つげ義春の「ねじ式」(月刊「ガロ」を毎号愛読)と、友人から借りた夢野久作の怪小説『ドグラ・マグラ』だったという。

「記憶を頼りに大学時代の自分と対面するのは、面白くもあり、つらくもあり。記憶の中の私…はたちそこそこの私は、もはや奇妙な分身のようになって動き回っているのだった」(「あとがき」から)

 記憶を頼りに甦ってくる60年代。その輝きと苦みのなかに中野さんの原点が見える。(ライター・田沢竜次)

AERA 2017年5月15日号