「iPS細胞は病気のメカニズムを調べたり、医薬品を探したりすることでも非常に大きな役割を持つものなので、そうしたことも知ってもらえるとうれしく思います。もしかすると、一般の人たちに利益が届くのは、再生医療よりも早いかもしれません」

 CiRA上廣倫理研究部門の八代嘉美特定准教授はこう話す。

 技術的な長所が多いiPS細胞については加えて、「ES細胞とは違って倫理的な問題がない」と教科書やマスコミで紹介されてきた。

●ヒトの臓器持つブタ?

 しかし、複数の研究者は「iPS細胞にも倫理的な問題はあり得ますよ」と口をそろえて言う。どういうことであろうか。

 おそらく重要になるのは、iPS細胞の元になる体細胞の採取の時点ではなく、それを使ったiPS細胞ができて以降の時点である。

 研究者たちの話を総合すると、iPS細胞の応用方法のうち主に2種類の研究で倫理的な問題が生じうる。

 一つ目は、ヒトのiPS細胞を遺伝子操作した動物の胚に注入して、人間に移植可能な臓器を持つ動物をつくる研究である。現在、ブタを使っての基礎研究が進行中であり、将来的には臓器不足を解消できるかもしれない。一方で、ヒトのiPS細胞を動物の胚に入れると、個体ができる過程で膵臓など目的の臓器だけではなく、脳や生殖細胞の一部もヒト由来のものになる可能性がある。そうなれば、ブタが高い認知機能を持ったり、受精させればヒトになるかもしれない精子や卵子をつくったりするかもしれない。

 もう一つは、ヒトのiPS細胞から精子や卵子といった生殖細胞をつくり出して、発生や不妊のメカニズムを解明する研究である。将来的には不妊治療などに役立つかもしれない。同時に同性愛のカップルや独身の人が子どもを持つことができるようになるかもしれず、抵抗感を持つ人もいるだろう。

「二つの研究とも、そういう可能性をお伝えすると、態度を改める人もいます」と、CiRA上廣倫理研究部門の澤井努特定研究員は話す。

●社会のコンセンサスを

 iPS細胞の元となる体細胞提供者の意思を尊重することも重要になる。

 体細胞提供者の中には、自分と同じ遺伝情報を持つiPS細胞が動物の胚に混ぜられ、全細胞の中に一部とはいえ自分と同じ遺伝情報を持つ細胞を含む動物が生まれてくることを嫌がる人がいてもおかしくない。自分と同じ遺伝情報を持つiPS細胞から精子や卵子をつくったり、それらを受精させたりすることに不安を感じる人もいるはずだ。これらの懸念は、研究自体の是非とは別に考慮すべきである。

 iPS細胞の倫理的な問題はES細胞とは違って、現在も生きている人間と同じ遺伝情報を持つことから生じる。より慎重な取り扱いが必要となることは明白であり、研究を進めるにしても、社会的なコンセンサスを形成する必要がある。

 奈良先端科学技術大学院大学教育推進機構の川上雅弘特任准教授は「iPS細胞の登場によって、『倫理的な問題はなくなった』のではなく、『倫理的な問題は変化した』とみなすべきです」と解説する。「iPS細胞だけではないのですが、生命科学ではつねに倫理的な問題を考える必要があります。研究者たちも、一般の人たちがどう思っているかを気にしています。将来的に応用される時代には、個人の判断に委ねられることになりますので、たとえば教育に取り入れることなどが必要です」

 iPS細胞には大きな可能性がある。しかし使い方次第では、見えにくかった問題が顕在化することもありうるのだ。

 CiRAの八代氏も強調する。

「iPS細胞は魔法ではない。再生医療全般に言えることですが、まだ臨床研究がほんの一部で始まっただけで、明日にでも実用化するというものではありません。だから長い目で見ていてほしい」

(サイエンスライター・粥川準二)

AERA 2016年11月28日号