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杉原千畝から始まった日本とイスラエルの縁は70年後も続く

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尾木和晴AERA
「プラネタリウム&瞑想センター」の前に立つ斑目力曠氏。鹿児島県出身で、僧侶の資格も持つ/イスラエル・ネタニヤ市(撮影/尾木和晴)

「プラネタリウム&瞑想センター」の前に立つ斑目力曠氏。鹿児島県出身で、僧侶の資格も持つ/イスラエル・ネタニヤ市(撮影/尾木和晴)

 ユダヤ人をナチスの迫害から救った杉原千畝氏の名を冠した通りがイスラエルにできた。日本人とユダヤ人の結びつきは今も、強い。

 地中海沿岸の町は気温が40度近くになっていた。イスラエル・ネタニヤ市で6月7日行われた「チウネ・スギハラ通り」の命名式。杉原千畝氏の四男、伸生(のぶき)氏(67)がスピーチに立った。

「父、千畝はユダヤ人難民の方々にホロコーストから逃れる道をお見せしました。チウネストリートは若い人々、イスラエルの皆様に希望ある将来を見せるでしょう」

 大きな拍手が送られた。

●恩人の子を留学で歓待

 千畝氏は第2次世界大戦中の1940年、在リトアニア日本領事館の領事代理として、ナチスドイツの迫害から逃れようとポーランドから脱出してきたユダヤ人約6千人に日本通過のビザを発給し続けた。訓令に背いてまで、人道的立場から独断で。

「一人でも助かってくれたらいい、という思いだったそうです」(伸生氏)

 ネタニヤ市には千畝氏の「命のビザ」で助かったユダヤ人とその子孫が多く住んでおり、リトアニアの首都ビリニュスに次ぐ「杉原通り」の場所に選ばれた。

 千畝氏の話は長い間知られることはなかった。訓令に背いたこともあってか、外務省は47年、依願退職という形で千畝氏を辞めさせた。海外から消息照会があると、「そのような名前の者はいない」と答えたという。

「恩人」をイスラエルが探し当てたのは68年。

「希望することはありますか」

 自身も助けられた商務官が千畝氏に聞くと、「息子を留学させたい」。その縁で、伸生氏は高校卒業後、国立ヘブライ大学に留学。学費や生活費などは大学奨学金とユダヤ人基金の援助を受けた。卒業後はユダヤ人ネットワークが強い宝石業界に入り、現在もベルギー・アントワープで宝石業を続ける。

 千畝氏が築いた日本とイスラエルの縁は、今も続く。

 ネタニヤ市のチウネ通り沿いにできた「プラネタリウム&瞑想センター」。斑目力曠氏(79)が建設費約4億円を市に寄贈。通りの命名式と同じ日に開館式が催された。


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