三重県鈴鹿市は江戸時代から現在も「染め型」の本場。内田勲さんは伊勢型彫り師のひとりで「突き彫り」の第一人者である。無骨な手先はザクッ、ザクッと迷うことなくリズミカルに微細な文様を切り込む。型紙は美濃和紙を3枚、柿渋で貼り合わせ、燻(いぶ)しをしてから1年以上乾燥させて渋(しぶ)を枯らす。手間と時間がかかる日本独自の台紙であり、薄い紙なのに耐水性が強く、伸縮せず、丁寧に使えば数千回の染めに耐えられるほど堅牢だ。型彫りの道具、小刀はそれぞれの職人さんたちが自分で作る。型を彫る時は型紙を六枚ほど重ねるので、小刀は専用の小さな砥石でこまめに研ぐ。根気と集中力、まして、高度な技術が必要だ。

 その型を使って、型染めを行う高崎市の藍田正雄さんは最後の「渡り職人」ともいわれ、今では小紋や縞染めの最高の腕を持つ職人である。7メートルの樅(もみ)の一枚板に貼った生地の上に、型を置きながら木の薄いヘラで防染糊を塗りつける。中腰で同じリズムで一気に糊置きを行う。以下の工程はここでは省くが、仕事場となる土間の「板場(いたば)」は冬は寒く夏は蒸し暑いが、急速な乾燥を嫌う型染めには、適度な湿度が必要不可欠である。

 小紋染めが町人に普及したのは江戸時代半ばごろ。それまでの庶民の衣料は麻の類で、文様のことなど考えるゆとりがなく、無地の衣類だった。それでも、農民や町人に少しずつ経済力がつき、それなりに生活が安定してくると、百万都市の江戸では新しい産業が生まれ「職人の時代」といわれるように仕事が増え、「町人文化」が生まれた。

 同時期に、綿花の栽培が成功し、摂津、河内、三河などで盛んになった。木綿は麻に比べ温かく、吸湿性もあり、着心地がよく、絹に比べれば値段も安価だった。

 庶民の生活に贅沢な物が広がると幕府からは「奢侈禁止令」が出され、庶民は絹を着ることが出来なくなった。このころから、町人の衣類は麻から綿織り物に大きく変化した。綿は染色にも適しており、藍染が一気に普及した。

 小紋の型染めは武士の裃(かみしも)が起源である。武士は藩ごとに「定め御紋(さだめごもん)」といって専用の文様を独占し、自前の文様を考案して競い合った。このために、小紋染めの技術が急速に発展し、やがて町人の着物にもこの型染めが広く行き渡るようになった。

 町人たちは武家などの着物の絵柄を目にしていたので、文様に対する憧れは強かっただろう。ようやく自分たちの望みの文様が着られるようになり、文様に対する愛情はわたしたちには計り知れないほど深かったことだろう。まずは、気品を重んじた梅や、菊の文様から、縁起を担いでめでたい宝尽くし文様などに目が向き、親しみやすく、着ていても楽しくなる庶民的な、福良雀(ふくらすずめ)文様などが考案された。さらに、身近な農具や大工道具文様、語呂合わせ、駄洒落、滑稽な文様を考案した。そして、小紋柄の需要が高まったので、職人魂が呼び起こされ、極度に微細な文様を次々に作るようになった。

「江戸小紋」で人間国宝の小宮康孝さんに以前うかがった話だが、昔の職人はとことん細かな彫りを追求した。型彫り師は染めの職人に対して「これだけ細かな彫りを染められるか」と挑戦し、対して染め師は「どんな細かな型でも染めてやる」と、技術の粋を凝らし、張り合うことで、現代では不可能なほどの技を実現させたということだ。

 内田、藍田のお二人とは時々、一献傾ける機会があるが、共通していえることは、常に新しいこと、先のことを考えている。染めの業界のこと、後継者の育て方。お二人の酒の席にはお弟子さんや、若い染めの関係者が同席することが多い。ご自分が過去に苦しい思いを体験しているだけに、若手の職人さんにチャンスを与えようという度量の深さが感じられる。

 藍田さんは常に新しい技法を追求している方で、「板引杢(いたひきもく)」(モアレの応用)、「うずらぎ」(絹地の光沢の変化を出す)などの染め方を考案してきた。弟子として13年ほど修業し、独立した菊池宏美さんも、「扱(しご)きぼかし」という技法を考え出している。しかし、こうした後継者はいるものの、近年では和服を着る頻度が減少してしまい、これからどう取り組んでいくのか問題は大きい。

『江戸文様こよみ』をまとめて改めて気がついたが、江戸時代は鎖国をしている間に、日本オリジナル、しかも、ヨーロッパやアメリカに発信するほどの文様を作り出していた。数え切れないほどの文様からは市井の人々の生活ぶりや想いが伝わってくる。現在まで脈々と受け継がれてきた文様を見直し、日本の着物文化、染織文化を継続してゆくために自分たちの時代に合った製品を作り、産業として成立させるために、知恵と工夫が必要となる。