芸術家として国内外で活躍する横尾忠則さんの連載「シン・老人のナイショ話」。今回は、「知らんけど」について。

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 若い人達の間で今、「知らんけど」という関西でよく使う言葉が全国的に流行っていると編集部の鮎川さんから知らされた。ヘェーッと思ったが、そういうといつか石原慎太郎さんとしゃべった時、石原さんはしゃべり終わった最後に「知らんけど」と言われたのを思い出した。すると今までの話はそれほど確信に満ちた話ではなかった、まあどうでもエエ話だったのかな? そんなにシリアスではなくカジュアルな話だったんだと。

 関西では物事をあまりはっきり言わない風習のような土壌がありますね。その辺のことを「ええ加減」と呼んで、そのええ加減を特別に悪とも思わない。人とのつき合いもどことなくええ加減が理想の交際術になっているように思える。「知らんけど」もそういう人間関係から発生した言葉ぐらいに思っていていいんじゃないかしら。物事を白黒はっきりつける生き方はどうも息苦しい。若い世代の人が「知らんけど」と言うのも、どことなく曖昧にすることで、そこに生きやすさを求めているのではないだろうか、よう知らんけど。

 僕は関西生まれなので、この「知らんけど」という言葉の感覚は頭ではなく体でよく感じている。「知らんけど」の他に僕が子供の頃から口ぐせになっていた「しゃーないやんけ」も、どことなく「知らんけど」と共通した諦め的なフィーリングがあって、一種の魔法の言葉かな?「知らんけど」、だったら探究してみようかという気持ちはいっさいない。「知らんけど」と言ってそこで打ち止めにしてしまう。それ以上深入りしない。そこで諦める。そして、「しゃーないやんけ」で終止符を打つ。

 それ以上の欲望も野心も好奇心もない。それはそれでええのと違うか。一見、負の生き方のように思われるかも知れないが、妙な願望や意志を通して自我を正当化する生き方はシンドイ、それよりも諦めることで、自分に与えられる自然の恵みのような運命に従った方が「ええのとちゃうか」という生き方もあっていいのではないだろうか。運命に逆らってどんどん欲望を全うする生き方もそれはそれでいい。現代はむしろこのような生き方が肯定されているように思うが、その生き方についていけない者もいるはずだ。その時、天から聞こえてくる声が「しゃーないやんけ」である。「しゃーないやんけ」は今を肯定する生き方でどこかスペインの「ケ・セラ・セラ」とも共通するラテン系の態度にも通じるような気がする。どこかで努力を否定する諦めに近い、運命に従った方が便利でいい、その方がずっと生きやすい。そんな逃避的な生き方には逆にラテン系の刹那的な「今」の思想を感じる。この感覚は東京の人にはちょっと理解できないのではないだろうか。

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横尾忠則

横尾忠則

横尾忠則(よこお・ただのり)/1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2011年度朝日賞。15年世界文化賞。20年東京都名誉都民顕彰。

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