日本ダルク代表の近藤恒夫さん/2006年3月撮影
日本ダルク代表の近藤恒夫さん/2006年3月撮影

 日本初の薬物依存者の社会復帰を支援する民間施設「ダルク」の創設者で、日本ダルクの代表・近藤恒夫さんが、大腸がんのため2月27日、都内の自宅で死去した。享年80。葬儀は近親者で執り行われた。

 筆者は6年前、東京都新宿区内の日本ダルクの事務所で、職員として働いていた元タレントの田代まさし受刑者にインタビューしたことがあり、立ち会った近藤さんからも話を聞いた。当時を振り返りながら近藤さんの人柄と「ダルク」の足跡を紹介したい。

  近藤さんが「ダルク」(現・東京ダルク)を都内荒川区に立ち上げたのは1985年7月。日本にはアルコール依存者救済の自助グループや施設はあったものの、薬物については初の試みだった。

「その頃、アルコール依存者は社会復帰できるけど、薬物異存者は無理、というのが専門家も含めて一般的な意見でした。それを聞かされるたびに、『じゃあ、元薬物依存者の俺はどうなんだ』と怒りを覚えたものです。薬物依存は一種の病気。本人次第で回復することは可能です。それで自分で作ることにしたわけです」

 近藤さんは働き盛りの30代に覚醒剤に溺れたことがあった。

「フェリー会社の調理部門責任者をしており、50年前ですが年収は1千万円を超えていました。自宅は札幌。結婚し、子供もいました」

 だが歯痛を押さえるために覚醒剤を使用したことをきっかけに常用し、気がつけば仕事や家庭はそっちのけ。生活はすさみ、解雇、家庭崩壊、ついには39歳だった80年に逮捕され、執行猶予付きの有罪判決を受けた。

 この時の裁判官の奥田保さん(故人)は、退官後に弁護士登録し、日本ダルクの理事長として近藤さんを支えた。

釈放後、以前から親交のあったメリノール宣教会のロイ・アッセンハイマー神父が主宰する、アルコール依存者の自立支援施設「マック」の職員になり、ロイ神父の右腕として活動した。

 そんな経験から薬物依存者向け施設の必要性を感じ、ドラッグ(Drug=薬物)、アディクション(Addiction=嗜癖(しへき)、病的依存)、リハビリテーション(Rehabilitation=社会復帰、 回復)、センター(Center=施設)の頭文字を組み合わせた造語の「DARC/ダルク」設立に至った。

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