その一方で、森家のプライベートな部分までをも文章化したために訪れる兄姉との確執。父の『小倉日記』をめぐるさまざまな思惑等々、彼は期せずして森一族のトラブルメーカーとなってしまうのだ。

 何故そうなってしまうのかというと、本当は働きたくなかった、すなわち、父の花畑から出たくなかった類がほんの一寸、外に出たために起こったことなのではないか、と思えてならない。

 そして、類は、花畑から出たり入ったりを繰り返すばかりである。類は、書店を営むようになるものの、あの森鴎外の息子が自転車に乗って、雑誌の注文をとりにいく。それが悲哀というより、ユーモアとペーソスに満ちた感じを受けるのは、何より、作者がこの人物を愛し、小説の中で彼と同じ時間を生きているからであろう。

 それから個人的な興味を書くと、類が共産党絡みの裁判を傍聴して、国家権力の凄まじさに恐怖し、それでも「裁量権」という作品を発表したことだ。類の作品は、いわゆる“アカ”の書いたものと誤解されるが、父鴎外も、大逆事件の後、寓意的な作品ではあるが「沈黙の塔」を書いたではないか。思わぬところでひとつになる父と子のシンパシー。

 類はそのことに気づいていたのだろうか。

 そしてラスト一行が、この作者の、いつまでも父の花園を逍遥していたかった、孤独で淋しがり屋で、甘えん坊の太陽王の生涯に対するあたたかな祝福でなくて何であろう。

 私は本書を慈しむが如く読んだ。夢見るような約500ページの傑作である。

週刊朝日  2020年11月13日号