ふた月くらいした時、おじいさんたちはどうせ覚えないんだから……といって、ふざけて仲間と名札を入れ替えて働いてたら「お前たちは名前変わったのかい?」と言われた。なんだ、覚えてるのかよ。だったら名前で呼んだらどうなんだ。『前座』と呼ばれるのに慣れた頃、そのうちに「あんちゃんさぁ~」と『あんちゃん』と呼ぶ人もいるのに気づいた。私はあなたのお兄さんじゃない。寄席の楽屋には『そっち』という二人称もあった。「そっちはさぁ~」と初めて話しかけられた時、キョロキョロして「どっちでしょう?」と応えたら「もういいや」と言われた。人によっては「そっちの生まれはどっち? 言葉の様子だと、やっぱりあっちか?」みたいな応用編な問題も出されたりする。もうよくわからない。

 そんななか、すぐに名前を覚えて呼んでくださる大師匠もいる。小言を言われるのでもそのほうが効き目はあるし、当人の心にも響くはず。第一覚えてもらえるのは本当に嬉しいんだな。だから私もなるべく前座さんは名前で呼ばねばな、とは思ってるんだがなんともかんとも。

 今は前座全員が名札着用の義務制だ。お前の名前はもう知ってるよ、というくらいの古参前座まで名札をつけている。二つ目になるまでつけなくてはならないらしい。「もう覚えたから外したら?」と言うと「いやいや、きまりですので」だそうで。杓子定規。名札があるとそれに頼っちゃうんだよな。そっちもこっちをあまり甘やかさないでほしいんだけどね。

週刊朝日  2019年11月1日号

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春風亭一之輔

春風亭一之輔

春風亭一之輔(しゅんぷうてい・いちのすけ)/落語家。1978年、千葉県生まれ。得意ネタは初天神、粗忽の釘、笠碁、欠伸指南など。趣味は程をわきまえた飲酒、映画・芝居鑑賞、徒歩による散策、喫茶店めぐり、洗濯。この連載をまとめたエッセー集『いちのすけのまくら』『まくらが来りて笛を吹く』『まくらの森の満開の下』(朝日新聞出版)が絶賛発売中。ぜひ!

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