しかし、翌58年になると、5月の宮内庁の会議で美智子さまがおきさき候補に決まり、マークされるようになりました。正田家にとって皇室は想像もできない所ですから、結婚をお断りになられたとの話もありました。

 9月初め、美智子さまは、聖心女子大学卒業生の国際会議の日本代表として海外へ旅立たれた。10月26日に帰国されたようですが、私は翌々日の28日、御所に呼ばれ、陛下から「(美智子さまに)お嫁に来ていただきたい。電話を取り次いでいただけませんか」という相談を受けました。私も大賛成でしたから”電話交換手”として協力しました。

 というのは、陛下が東宮仮御所から池田山(品川区)の正田邸へ直接電話を入れると、どなたがお電話に出るかもわかりません。ご迷惑をかけてはいけないというご配慮から、まず、陛下から私の自宅に電話がかかる。次に、私から正田邸に電話し、「殿下が今、御所の書斎の電話の前でお待ちですから電話をかけてください。お願いします」と伝えておりました。ほとんど毎日のように20日間くらい、私が交換手の役割をし、正田邸に電話を入れていましたよ。

 忘れもしない11月8日の夜、御所に呼ばれ、陛下から「あまり、うまくいっていない」と、恋の悩みを打ち明けられました。美智子さまから良い返事がもらえないということですね。私は「世間では、柳行李(やなぎこうり)一つで来て下さい、というプロポーズの言葉があるんですよ」とお話したのを覚えています。

 陛下はしばらくお考えになると、美智子さまに電話を入れて欲しいとおっしゃるので、正田邸に電話すると、幸いにも美智子さまがおられました。

 美智子さまに折り返し電話していただき、私は電話のある書斎の隣の応接間で待っていました。どんな会話があったのかはお二人にしかわかりません。

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